芳瀧の『役者評判記』

今日は芳瀧編集の『役者評判記』。
ここから芳瀧の足取りをつかもうという試みだ。

役者評判記とは歌舞伎役者の技芸を評価した書物。江戸・大坂・京と3都市で別々に出版されていた。始まりは歌舞伎が盛んになった1600年代の終わり頃からで、明治中期頃まで続けられた。

芳瀧の動向を検索するなかで、中井恒次郎名による役者評判記が出版されていたことが分かった。参考にした明治期上方板役者評判記一覧(日置 2011)によれば、明治11年に大坂で2件、明治12年は大坂の1件と京都の2件で合計5件が芳瀧編集によるものとされている。

私のオンライン検索で実物の画像が閲覧できるのは早稲田大学古典籍総合データベースの明治11年の大坂の角座と戎座のデータだけ(2021/3/14現在)。

こちらが角座の『俳優評判記』。せっかくなのでちょっと拝見。

「俳優評判記 / 中井恒次郎 編輯」早稲田大学図書館蔵 #チ13 03849 0124
「俳優評判記 / 中井恒次郎 編輯」早稲田大学図書館蔵 #チ13 03849 0124

内容は段(幕)ごとの評から始まり、中程に行くと番付の頁がある。
名前の一番上に書かれた太文字、右から順に高位で、「大上上吉」「至上上吉」「極上上吉」「真上上吉」「上上吉」と続く。
たとえば最上位の「大上上吉」は立役の市川右團次。「きかい(機械)のわざ(技)はたぐいなき造幣場」と書かれている。タイトルが「見立作花名所」というだけあって、役者の番付を大坂の桜の名所番付に見立てているわけだ。
真ん中あたりの番付で「真」や「至」の文字が白抜きになっていたり、画数が足りなかったりしているのは、力不足を表しているのだとか。漢字文化圏の私たちには確かにわかりやすい。しかも少し笑える。
番付のあとは役者ごとの評になっている。

さて本題に戻って、芳瀧情報が期待できる奥付を見てみよう。

「俳優評判記 / 中井恒次郎 編輯」早稲田大学図書館蔵 #チ13 03849 0124

最初に「第一大区八小区尾三丁目  編輯(編集)者 中井恒次郎」。そして最後に「明治11年4月18日届」とある。

まずはじめの住所、大坂のもので廃藩置県のあと明治政府が短期間定めた大区小区制の時代のものだ。この地方制度は1871(明治4)年に発布され、1878(明治11)年の廃止された。このことから、この評判記は制度廃止直前に出版され、さらにその時点で中井恒次郎は大坂在住であったことが分かった。

中井恒次郎は芳瀧の本名で、中井は生まれ持った姓。
これまでのとおり問題の《妹背山婦女庭訓》は笹木芳瀧と署名がある。笹木姓についてはさまざまな文献で「1874(明治7)〜1875(明治8)ころに芳瀧が継いでのちに弟に譲った」という曖昧な文章で書かれているのをたびたび見かける。芳瀧作品における笹木署名作品の少なさを考慮しても笹木姓を名乗っていた期間はごく短い年月だったのではないかというのが私のこれまでの推論だ。

さて、ここまでのまとめ。
1)芳瀧の動向について。
前回までの芳瀧の略歴で、1880(明治13)年に京都に移住したという記録があったが、それ以前の居住地が不明だった。この奥付の住所によって京都への移住前は大坂在住であった可能性が高くなった。
2)中井姓について。
この奥付によって、1878(明治11)年4月18日の段階で芳瀧は中井姓であることがわかる。1874(明治7)〜1875(明治8)ころに芳瀧が笹木姓を継いだのは文献上明らかなこととして、1878(明治11)年のこの時点で中井であるということは、この時点で芳瀧の姓は笹木から中井に戻っていることになる。
3)役者評判記の役者たち。
この評判記では芳瀧作品に度々描かれている上方の役者が名を連ねていた。このことは芳瀧の地盤が上方であったことを裏付けるものと思われる。


笹木芳瀧画《妹背山婦女庭訓》の出版年については笹木姓の時期を絞り込むことが不可欠だ。
1874(明治7)年から1878年(明治11)年を出版年と仮定し、出版地は大坂。
この2点を基本として調査を継続する。

参考文献
日置貴之 2011「明治期上方板役者評判記とその周辺」『日本文学』60巻12号 日本文学協会p.24〜33
https://ci.nii.ac.jp/naid/130005675842(2021/3/12閲覧)

「俳優評判記/中井恒次郎編輯」早稲田大学図書館
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/chi13/chi13_03849_0124/index.html
(2021/3/12閲覧)