芳瀧 晩年の活躍

なんと、芳瀧デザインのアサヒビールの広告が存在するのだ。

アサヒビール公式サイトより
https://www.asahibeer.co.jp/area/07/27/sakai/komakichi_vol04.html

天の岩戸から現れるアサヒビールを神々が寿ぐ様子が描かれている。
そして右上、旗に見立てた枠の中に「波に朝日」の図柄の登録商標。これはビールのラベルデザインの原型となって昭和まで使われたものらしい。

有限責任大阪麦酒会社(現・アサヒビール株式会社)は1889(明治22)年創立。明治25年の広告デザインを通して芳瀧と、社長の鳥居駒吉、取締役の宅徳平らとの親交が始まった。
当時の芳瀧の大阪での交友については、まえに話した弟子で娘婿である川崎巨泉が書き残していることが、以下の森田 俊雄(2009)によって指摘されている。

「情歌とは「よしこの」と読み幕末から明治に大阪で流行したよしこの節のことである。巨泉は雑誌『上方』(昭和 10 年 10 月号)に「アサヒビールと情歌」を書いたが、これは芳瀧が 1892(明治 25)年に大阪錦画新聞 アサヒビールの朝日に波のラベルを描いた縁で、その頃情歌がはやっていたので平瀬露香、 鳥居駒吉、宅徳平、北村柳也を撰者に旭、麦酒、吹田(筆者注:現在の大阪府吹田市の事) を題にして一般から情歌を募ったという話である。「昔むりやりこらえた苦味今は吹田の旭ビール」などの歌が紹介されている。」

この「よしこの節」というもの、今回はじめて知った。晩年の芳瀧は絹本や戯作・狂歌なども良くしたとのこと。幕末から明治へと生活様式も大きく変化するなかで、芳瀧の柔軟な感性と人脈が晩年の創作活動を後押ししたようだ。

それにしてもアサヒビール。今や世界で飲まれているビールだ。その誕生の一端に手元にある錦絵《妹背山婦女庭訓》の絵師の活躍があったとは。

遠い昔だと思っていた明治が少し身近に感じられる発見であった。

<参考文献>
森田 俊雄 2009「おもちゃ絵画家・人魚洞文庫主人川崎巨泉(承前) ―浮世絵師からおもちゃ絵画家への軌跡― 」『大阪府図書館紀要』(38)大阪府