歌川国芳

今日は江戸幕末の浮世絵師・歌川国芳について。

国芳は、現在謎解き真っ最中の《頓兵衛娘於ふね》の絵師。
ここでは謎解きに役立ちそうな視点から、国芳の生涯を簡単にまとめてみる。

歌川国芳こと井草孫三郎は1797(寛政9)年11月15日、江戸日本橋本銀町の染物屋 柳屋吉右衛門の子として生まれる。ちなみに月日は不明ながら安藤広重の生年でもある。国芳と広重は同い年なのだ。6歳頃には武者絵の絵本を写したり、家業染物屋の上書きを手伝っていたようだ。

1808(享和2)年、国芳12歳。《鍾馗剣を提ぐる図》を描いて初代豊国に認められ、1811(文化8)年15歳で豊国に入門。1813(文化10)年には『戯作者浮世絵師見立番付』で前頭27枚目に付いたとのこと。一般に国芳の活動期は1812(文化9)年からと言われるが、入門してすぐに頭角を現したようだ。

1815(文化12)年、19歳の国芳最初の錦絵《春けしき王子詣》が刊行される。
1816(文化13)年には「採芳舎」、1818(文政元)年には「一勇齋」の号を使い始める。

そして1827(文政10)年、国芳31歳。《通俗水滸伝豪傑百八人之壹個》シリーズが開始されてから「武者絵の国芳」と評判がたつ。この作品を皮切りに山東京伝作『稗史水滸伝』の挿画や自身の《本朝水滸伝》シリーズの刊行が続いた。

そんななか、1836(天保7)年頃には「朝桜楼」号も使い始める。

国芳の武者絵は、意表を突く画面構成と現代マンガのMarvelも真っ青の豪快でダイナミックなアクションにモダンな彩色が効いている。粋でいなせな江戸っ子たちが虜になるのも無理はない。こうして、役者絵の国貞、風景画の広重とともに、子供の頃から慣れ親しんだ武者絵において国芳が揺るがない地位を確立したわけだ。

一方で美人画においては、トレンドをリードするようなファッション感覚で染物屋生まれのDNAを発揮する。ディテールまで凝った衣装デザインといいコーディネートのセンスといい、なかなかクールでスタイリッシュ。また、風景画については伝統的な技法による『東都名所』シリーズなどの刊行もあるが、西洋の版画を入手して遠近法を取り入れるなど新しい技法にも積極的に取り組んでいる点が興味深い。

さて1841(天保8)年、天保の改革が始まると錦絵出版業界も打撃を受ける。役者絵や芸者・遊女の錦絵の出版が禁止されたり、値段も価格統制された。

そんなさなか国芳は、1844(弘化元)年頃から「芳桐印」を使い始める。ちょうどこの年、国貞が三代豊国(自称二代)を襲名。国芳の初期作品には押印のないものが多いのですが、それでも少なくとも1830年代の作品に見られる印は「年玉印」だった。国貞は歌川派の「年玉印」をずっと使い続けている。国貞と国芳は同じ豊国門下で売れっ子同士。国貞は11歳年長だったがライバル関係であったことは容易に想像がつく。国芳が「年玉印」から「芳桐印」に変えた時期と国貞の豊国襲名とが重なる点に関連がないとは思えない。

出版統制下でも国芳は《誠忠義士伝》シリーズなどヒット作品を発表し続けていた。武者絵とともに国芳の独特な感性が発揮されているものに戯画がある。風刺の効いたデフォルメやカリカチュアを見ているとふっと笑みがこぼれる。こうした作品もまた、幕府の改革によって生きづらさを感じる庶民のささやかなはけ口となったに違いない。
そんな自由な発想を持つ国芳は、風刺や悪ふざけで何度も奉行所に呼び出されたほか、出版禁止なった作品もあったという。

創作活動がやりづらいこの時期にも創意工夫で老若男女を楽しませてきた国芳だったが、1855(安政2)年秋、中風で倒れる。この翌年、同い年の広重が他界します。国芳の症状はその後も悪化し1861(文久元)年3月5日、65歳の生涯を閉じる。

大雑把だが国芳の生涯を辿ってみた。
国芳作品は今後も謎解きに登場する。

参考文献
小林忠・大久保純一 2000「浮世絵の鑑賞基礎知識」至文堂 p.244
橋本麻里 2016「べらんめえ国芳」『芸術新潮』第67巻第4号 通巻796号 新潮社 p.22〜23