申と甲

今回も磬子の彫物について。

BlueIndexStudio所蔵

この胴体部分の外側上部の彫り込み。
問題は「安永三年申午」

恥ずかしながら全く気がつかず、この謎解きをシェアしていた学生時代のゼミ仲間Iさんが指摘してくれた。

問題は「申」。

画像で安永三年(1774)の次に「申(さる)」がある。その次は「午(うま)」。これでは十二支が2つ並んでいることになる。通常は元号年の次に十干と十二支が並ぶ。

安永三年の干支は甲午。

甲を申と誤って彫ったのだ。縦画の彫り違いはありそうなこと。さらにIさんは、刻印された時期が年号と干支を組み合わせて使用することがなくなった時代の可能性も指摘してくれた。つまり年号と干支のセット使用が一般的ではなくなった時代ならば、こうした彫り間違いやうっかりミスもあるのではないかという見解。

たとえば番付資料などを見ていると、明治の初期は元号年と干支(十干十二支)の記載が多いが、その後徐々に元号年と十二支のみとなり、明治中期には元号年だけの表記も出始めている。ただ、他の資料を見ていても、ある時点で一斉に様式が変わったというものでもなさそうで、かなり長期にわたって混在していたように見えるのだ。

甲を申と掘り間違えたことがこの磬子の流転のきっかけだったのかもしれない。