『Klara and The Sun』

カズオ・イシグロの新作『Klara and The Sun』。はじめて原書で読んだイシグロ作品となった。

主人公KlaraはAF(Artificial Friend:人工の友達)とよばれる家庭用ロボット。AFの役割はその名の通り持ち主の親友になること。ロボットは機械なのである一定の共通した機能で作られて持ち主の使用に応じて何かしら特徴をもつAIBOのようなものを想像していた。しかしKlaraが売られていたお店のようすから、この物語の中のAFは初めからそれぞれのパーソナリティをもっていることがわかる。AFを販売するお店のマネージャーは、どんな細部も見逃さない観察力と洞察力が際立っているAFとして、Klaraを高く評価している。

この物語ではそんなKlaraの経験が、彼女の言葉で語られていく。

KlaraはJosieというティーンエージャーの親友になる。Josieは難病を抱えている。母親、ボーイフレンド、父親など彼女を取り巻く人々もまたJosieの病によって痛み、そこから個々の問題もまた浮き彫りになる。Klaraはそうした彼らにとっても、ひととき心を許せる存在になっていく。

Klaraは日常で経験するあらゆることを観察してデータとして取り込んでいる。そこから人間の心の機微や行動様式を理解している。いわゆる空気が読める言動まで可能な高度な社会性を身につけながら献身的にAFの役割を果たそうとしているのだ。

そんななか、Josieの病の先が見えない状態にJosieの母親は最悪の事態を想定しはじめる。つまり、もしもJosieが死んでしまったらKlaraをJosieの身代わりとして残りの人生を生きてゆこうというもの。今は一人娘のJosieですが実は亡くなった姉がいた。Josieの母親は娘をふたりとも失うのではないかという不安に苛まれているのだ。母親はKlaraと二人きりになったチャンスにJosieのマネをさせてーKlaraはデータ化したJosieの特徴を利用してJosieのように振る舞えるーその出来栄えに満足する。そして母親の痛みを理解できるKlaraはJosieになりきる準備という、親友としてJosieに幸せを与えるという役割とは相反する使命も負うことになるのだ。

Klaraは太陽の力を信じていた。Klara自身もソーラーパワーで機能しているのだが、AFショップのショーウィンドーから、動かなくなっていたホームレスとその犬が翌日元気になったのを見て太陽の恩恵だと信じていた。太陽が持つエネルギーは、植物の成長を促すように人間に対しても豊かな滋養があると考えていたのだ。Klaraは親友のJosieにもその恩恵がもたらされるよう太陽に何度も働きかける。そしてJosieの快癒の希望が失われたかに見えたとき、力無く横たわるJosieのうえに燦々と太陽が降り注いだのだ。
そしてJosieは意識を取り戻した…

さてこの先、この物語が問いかけてくるものがとても深い。
人と人を生きやすくするために人によって作られたロボット。そのロボットが限りなく人に近いものになっていく。そしてある意味人がなりえない、人にとっての理想の存在となっていく。しかしそれはどこまでも人にとって都合の良い便利なモノ。

人のエゴ、倫理観…日頃ふっと意識に浮かんでは消える疑問を突きつけられたような終盤。

今私達が直面している様々な問題は私達自身が生み出したものなのだと。森羅万象すべてが人のために存在するって思い込んでいるのではないか?人って何なんだろう、生きるって?

児童書のような親しみやすいタイトルに隠された深淵。
拙い英語力で読み飛ばしもあるはず。そんな時はいつもならすぐに読み直すのだが、それが憚られるほど、ずっしりと疲労を感じる作品だった。