妹背山…東京公演

今日は《妹背山婦女庭訓》東京興行について。

前回の『浮世絵類考』をもとに考察すると、芳瀧は上方で一生を過ごしたという可能性は高いが、念には念を入れて、東京興行のチェック。

資料は前回利用した立命館大学の「ARC番付ポータルデータベース」による芝居番付を活用する。時期も前回同様、1870(明治3)年から(念のため)芳瀧没年の1899(明治32)年まで。

この期間東京では《妹背山婦女庭訓》が23件の興行された。画像で確認できたデータの内訳は辻番付9件、絵本番付6件です。この他に早稲田大学の演博検索から画像が開けず、番付画像を確認することが不可能だった辻番付が8件あり。この8件に関しては同時興行の外題や月日などの基本データがARCリストの該当ページに記載されていた。そこでこの問題をオンライン上の技術的な問題とみなし、その番付は存在するものとして基礎データに加えた。

ARCリストの使い方についてひとつ。
《妹背山婦女庭訓》の検索は作品名と年代だけで行っているので、この興行の各種番付が年代順に(あれば月日も)リスト化されて出てくる。そのため、表示される番付はどれか一つの番付のこともあれば、いろいろな番付がそれぞれ複数に表示されることもある。番付が印刷物であることの利点だ。実際、個々の番付の保存状態には差があって、印刷画面全体が薄くなっていたり欠損があったりもする。こんなときは資料が多いほど助かるわけだ。
ここで通常通りに画像確認ができた15件に関しては各種番付が複数存在した。時期や役名・役者名を読みとることが目的なので、画像が鮮明で文字が読みやすものを選び、実際にデータ確認に使用したものが上記の辻番付と絵本番付の数値になる。

その結果…予想通り、芳瀧の配役に符合する興行は無かった。

ここまででひとつわかったこと。
前回上方の番付の配役と今回の東京の配役と比べてみると、芳瀧作品に登場する役者の流れをくむ役者は上方の配役のほうが断然多いということ。
もちろんここには未確認の8件が残っていて後日確認できる状態になることを願っているのだが、この未確認の8件は全て1890年以降のもの。1899年没の芳瀧が東京の興行にインスピレーションを得て上方の版元から出版するということは、今回の調査をしてみてやはり無理がありそうに思う。
ここはやはり、芳瀧は上方の役者を元に《妹背山婦女庭訓》を描いたと考えるのが自然だ。