《妹背山婦女庭訓》その4

前回のポストイットの内容から作品の基本情報となる部分について少しまとめてみた。

作品名:妹背山婦女庭訓(いもせやま おんな ていきん)巻、六 大尾 
版元:日本橋南詰 本安 (松栄堂 本屋安兵衛 大阪道頓堀日本橋南詰東江入南側)
絵師落款:笹木芳瀧画

中井芳瀧(芳滝)1841-1899 幕末から明治時代の浮世絵師。
1841(天保 12)年2月22日生まれ。国芳派、歌川芳梅 (よしうめ) の門人。大坂の浮世絵師で役者絵、美人画を得意とした。1874−75(明治7、8)年頃に笹木家を継ぐも、後に浮世絵師 笹木芳光に譲っている。活動期は1854年11月〜1860年2月(安政期)〜 明治中期。1899(明治32)年6月28日、59歳で死亡。別号に一養亭、一養齋、里の家などがある。

この作品は「笹木」姓なので1874年以降、笹木姓を名乗っている間の作品ということになる。

さて、「妹背山婦女庭訓」の上演劇場を探していて大阪の角座にたどり着いた。芳瀧の時代よりもちろん随分遡るが、長崎の出島に医師として来日していたシーボルトも「妹背山婦女庭訓」を見物したそうだ。

かどざ【角座】
大阪市南区西櫓町の劇場。1652年(慶安5)の道頓堀芝居名代御定のおりの大坂太左衛門芝居に始まる。太左衛門橋を南へ渡った角にあったため角の芝居と呼ばれた。元禄期から竹嶋幸十郎・村山平十郎・竹嶋幸左衛門らが座本として活躍。1758年(宝暦8)並木正三が回り舞台を創案して大当りした。1826年(文政9)江戸参府の途次シーボルトが《妹背山婦女庭訓》を見物した劇場。大西芝居の衰退後も,幕末まで一貫して中の芝居(中座)と共に大芝居の劇場として隆盛を保つ。
「角座」平凡社世界大百科事典 第2版 2018