梅と桜

《梅王丸と桜丸》にも見られるように、梅と桜は並び称されることが多い花だ。

江戸時代以降の春の娯楽としての花見の普及もあり、現在は桜がより身近になっているが、はるか昔、桜より梅の方が人々の関心を集めていたと言われている。

梅から桜への人気の移行期は奈良〜平安時代らしい。その頃といえば和歌集の編纂が多く行われた時期だ。

例えば、平安時代初期に編まれた最初の勅撰和歌集『古今和歌集』。「大和歌は、人の心を種として、よろずの言の葉とぞなりにける」の序文も有名。この和歌集は春の歌から始まる。和歌の題材としての梅と桜に注目してみよう。

巻第一「春歌上」と「春歌下」には168首の和歌が選ばれている。そこで、和歌の中の梅と桜それぞれの出現和歌数を調べてみた。

梅:「春歌上」15首、「春歌下」0首 計15首
桜:「春歌上」17首、「春歌下」18首 計35首

さらに、和歌のなかで「花」といいながら、詞書から梅、または桜を詠んだと理解できる和歌は次のとおり。

詞書から梅を詠んだと判断できる和歌:「春歌上」2首、「春歌下」0首 計2首
詞書から桜を詠んだと判断できる和歌:「春歌上」3首、「春歌下」4首 計7首

ちなみに、これらの中に混在するかたちで花の名前ではなく「花」を使う和歌もみられる:
「春歌上」9首、「春歌下」27首 計36首

最初の梅と桜の比較だけをとっても、桜の出現数が多いことが見て取れる。
つまり、平安時代の初めにはすでに桜の方が梅よりも身近な、あるいは琴線を揺さぶる花になっていたようだ。

参考文献
佐伯梅友 注 1958 「古今和歌集巻第一、巻第二」『古今和歌集 日本古典文学大系8』岩波書店



シタ売


豊国の錦絵《舎人梅王丸・舎人桜丸》に、縦型楕円の枠に「シタ賣」と押印がある。「賣」は「売」の旧字体。ちょうど「村田」「米良」の2つの改印に続いて置かれている。

舎人梅王丸・舎人桜丸 (部分) BlueIndexStudio所蔵

これは「下において売る」という意味だ。地本問屋・書物問屋など出版物を販売していた当時の書店では、錦絵などを客からよく見えるように吊るすなどして販売していた。しかし、この印が押された版画は、下げたり飾ったりせずに下に置くなど「目立たないようにして売るように」という但し書きが加えられた形だ。

この時期は2名の町名主が作品検分をしていた。担当町名主は「村田」「米良」。「シタ賣」印の有無も町名主の判断となる。

この印が使われた時期は1850(嘉永3)年3月から約4年間、似顔絵とわかる役者絵の一部(竹内 2010)に押印されていた。

今回の作品は1850(嘉永3)年7月の江戸・中村座上演にあわせたもので、梅王丸は7代目市川高麗蔵、桜丸は初代坂東しうかを描いたものであることが、早稲田大学演博データベースによって確認できる。

『江戸文化の見方』によれば、1850(嘉永3)年3月は、天保改革の奢侈禁止令に触れて江戸払い(江戸十里四方追放)になっていた5代目市川海老蔵(7代目市川團十郎)が赦免となり江戸の舞台に復帰した時期であるために、話題の人気役者海老蔵を題材にした作品に「シタ賣」が押印されたものが多く見られるとのこと。

ちなみに、梅王丸を演じた7代目市川高麗蔵は5代目市川海老蔵の三男ににあたる。

天保改革により禁止されていた役者絵の流通が復活を見せていた時期。出版業界としては売れ筋の役者絵が再度の禁止令を受けることを危惧し、控えめな販売方法を促すために使われたのが「シタ賣」印だということだ。

<参照文献>
竹内誠 2010 「出版統制」『江戸文化の見方』角川学芸出版 p.316−317

<参考サイト>
早稲田大学文化資源データベース《舎人梅王丸・舎人桜丸》
https://bit.ly/3Kjtjcg(2022年1月11日閲覧)

梅王丸と桜丸 

2022年、令和4年の最初の作品は、梅と桜で華やかに。

舎人梅王丸・舎人桜丸 豊国画 BlueIndexStudio所蔵

作品名:舎人梅王丸、舎人桜丸(とねりうめおうまる とねりさくらまる)
板元:恵比須屋庄七
落款:豊国画(年玉枠)
絵師:三代豊国(国貞)
改印:米良・村田(シタ売)
判型:大判 錦絵
出版時期:;1850(嘉永3)年
興行名:菅原伝授手習鑑
上演:1850(嘉永3)年7月11日
上演場所:江戸・中村座

退色は画像のせいだけではなく実際にみてもこんな感じ。一方で目立つカビや虫食いもないところから安定した平らな場所か額装などの保存状態であったようだ。

この作品にはあまり一般的ではない「シタ賣」という押印がある。これについては改めて。

<参考サイト>
早稲田大学文化資源データベース『菅原伝授手習鑑』
https://bit.ly/3nmjEI2(2022年1月11日閲覧)

ボストン美術館の浮世絵収蔵内訳

『ボストン美術館所蔵 俺たちの国芳 私の国貞』展のカタログにボストン美術館(MFA)の日本版画の絵師別収蔵数が掲載されている。今回はこのデータについてのお話。

まず「ボストン美術館に1000枚以上の作品が所蔵されている日本の版画の絵師」というタイトルの表が添付されている。

これまで私が記憶にあるのは2008年の『ボストン美術館浮世絵名品展 図録』のトンプソン氏の解説。かなり古い話ですが、その時点ではまだ登録は続けられており、ビゲロー・コレクションの浮世絵版画に関しても、「少なくとも30,000点になると確信する」という見通しを述べていた。これを踏まえて作品登録が完了したこの表を見ると、2011年に登録終了となったビゲロー・コレクションの版画総数33,264枚というデータは、当時のMFA担当者の確信に近い結果だ。

さて絵師別の数値。作品数の一番多いのは国貞の10,304枚。
ついで2番は広重5,776枚.、3番は国芳3,794枚、4番目初代豊国(国貞の師)1,563枚、5番目国周1,298枚、6番目北斎1,267枚…と続く。
国貞作品が他に比べてずば抜けて多いことがわかる。

つぎにこの表をコレクションごとに見ていこう。これは寄贈作品の多い2つのコレクションを比較している。
ビゲロー・コレクション*の1番は国貞9,088枚、2番目が国芳3,240枚、3番目が広重で1,736枚、4番目が国周1,192枚…。
一方でスポルディング・コレクション**の1番は広重2,383枚、2番目が春章452枚、3番目が北斎427枚…です。

ビゲロー・コレクションの総数は33,264枚で版画コレクション全体の63%を締めるといい、ビゲローの時代からすれば古い江戸時代の作品を、偏らず幅広く収集することに努めたようだ。
スポルディング・コレクションの総数は6,609枚で全体の12%で、とりわけ広重作品を好んで収集したようだ。そのおかげで絵師別作品数において広重が国芳を抜いて二番目に収蔵作品数の多い絵師となったことが指摘されている。さらにトンプソン氏は、スポルディング兄弟が入手した数少ない国貞と国芳の風景画について、19世紀の風景画収集は20世紀初めのアメリカのコレクターの典型的な嗜好であると指摘。影響を与えたのは1890年代フェノロサ***を代表とする“風景画により価値を置く見方”にスポルディング兄弟が影響を受けたことにも言及してる。いずれにしてもスポルディング・コレクションは門外不出。展示されることはない。

コレクターそれぞれのこだわりのおかげでMFAの所蔵は大変豊かなものになった。最終的には版画総数には現代作家による作品数も含まれているそうだが、それにしても膨大だ。とりわけビゲロー・コレクション。この数値を見ると2016-2017年の国芳国貞展の殆どがビゲロー・コレクションだということも納得だ。ビゲロー・コレクションも2000年までは美術館の規約により貸し出し禁止だったことを考えると規約が変更されて幸いだった。

2011年の作品登録終了から10年も経ったが、クニクニ展の日本版カタログが入手できたおかげでデータを知ることができた。

なおトンプソン氏はこの解説を「宝物の終の棲家を探すときにはMFAを思い出してほしい」という言葉で結んでいる。浮世絵版画の終の棲家としてMFA以上の場所はないと私も思う。この10年の間には新たな宝物が増えているに違いない。

セーラ・E・トンプソン(Sarah E. Thompson)
ボストン美術館 アジア オセアニア アフリカ美術部 日本美術課 キュレーター(Curator, Japanese Art Museum of Fine Arts, Boston)
注:日本語によるタイトルは参照文献による

*William Sturgis Bigelow Collection
**William S. and John T. Spaulding Collection
***Ernest Francesco Fenollosa: MFA日本部(のち東洋部)初代部長

<参照文献>
セーラ・E・トンプソン 2016「ボストン美術館の国芳と国貞」『ボストン美術館所蔵 俺たちの国芳 私の国貞』光村印刷 p.210-215

5年越しのカタログ

2016年に渋谷Bunkamuraで開催された『ボストン美術館所蔵 俺たちの国芳 私の国貞』展。帰国中に観ることができたものの、飛行機に預けるトランクの重量の問題でカタログの購入を断念して帰宅してからというもの、2017年にはMFAでも国芳国貞展もあり、完全に失念していた。それがふと思い立って見た古書サイトで発見。サイトの本の状態では「良好」とあったが、どう見ても新品。

ざっとめくって一番に目に入ったのは、MFA日本美術キュレーターのセーラ・トンプソン氏の解説。 2016−2017年の二カ国開催のクニクニ展がつぎつぎに目に浮かぶ。

フォクシングと虫食い

今回は浮世絵版画に見られるフォクシングと虫食い。

下の画像は三代豊国画「清水清玄」「下部淀平」。すでに登場した歌舞伎「恋衣雁金染」の役者絵だ。

まず左の作品の右下、清玄の足元には拡大しなくても大小多数の褐色の斑点が見える。カビ(糸状菌)。かなり盛大にカビている。右側が拡大図。この斑点が散りばめられる状態が狐(fox)の体毛の模様に似ているところからフォクシング(foxing)という。日本では「星」という呼び方もあるらしい。

香蝶楼豊国画 清水清玄・下部淀平(部分)BlueIndexStudio所蔵
香蝶楼豊国画 清水清玄・下部淀平(部分)
BlueIndexStudio所蔵

カビは埃(塵)や微生物と高温多湿の組み合わせで発生するため、日本のようにクローゼット用に湿気取りが売られている国では防ぎようがない。

大昔、エッチングの修復をした時は支持体が洋紙(コットンパルプ)で、フォクシング除去はアンモニア水に浸して専用スポンジでさするようにして、あっさりきれいになった記憶がある。幕末の錦絵に使われた奉書紙はそれ以前に比べて丈夫になったとはいえ、洋紙のような扱いはできない。部分的に無水エタノールを試してみたい気もしますが、何より変色が心配でいまだに触れない。

さらに清玄の足の指下方には虫食いの穴。清玄の右足指先や淀平の膝と加賀安印の間にも大きなミミズのような虫食いあとがある。

虫食いの方はすこしだが裏張りの跡がある。

香蝶楼豊国画 清水清玄・下部淀平(裏面部分)
BlueIndexStudio所蔵

左側、清玄の足のちかくに一箇所、その並びにもう一箇所と下にも一箇所、濃い目のベージュの紙の色が見える。契った和紙を裏からミミズ上の穴に貼り付けたようだ。こちらで売られる錦絵作品にはポスターやダンボールを裏から貼り付けられた状態を見かけることも度々なので、この作業は日本にいるうちに行われたか、あるいは少しでも知識がある人の手で行われたと推測する。

紙の保存は本当に難しい。何かできることがないかと見るたびに思うのだが…

初演「恋衣雁金染」

今回は清水清玄とさくら姫が登場する歌舞伎恋衣雁金染」のおさらい。

前回の作品概要で歌舞伎上演年はわかっているので、立命館大学の番付ポータルDB (ARC)にお世話になる。国立音大図書館所蔵の絵本番付を参考資料として閲覧した。

国立音楽大学図書館所蔵 
ARC番付ポータルDB管理#:kunTK64-1065

絵本の表紙の中心部、外題の1行目の少し大きめに書かれたほうが「恋衣雁金染」。そして左手には「河原崎座」。そのまえに書かれているのはたぶん左流和可、可のくずしの一画目の点がないので「の」にみえてしまうが、猿若町と言いたいのではないかと思う。そして宝尽くしの文様が施されて新春気分が満載だ。

国立音楽大学図書館所蔵 
ARC番付ポータルDB管理#:kunTK64-1065

三役がわかりやすく描かれている場面が左頁下に見られる。中心の着物には三枡紋。三枡紋といえば団十郎。この役者が清玄を演ずる市川団十郎。隣の男が嵐璃寛演ずる淀平。反対側振り袖の娘が桜姫、岩井粂三郎と理解できる。

国立音楽大学図書館所蔵 
ARC番付ポータルDB管理#:kunTK64-1065

こちらは最後のページ。狂言作者の欄には河竹新七とある。そして左側の枠には「嘉永5年子正月13日ヨリ」とあり、公演の始まりが告知されている。

ちなみにこの三人の役者を「嘉永5年1852年」時点で調べたところ、八代目市川団十郎、三代目嵐璃寛、三代目岩井粂三郎(のちの八代目岩井半四郎)ということになる。

河竹新七作「恋衣雁金染」はこれが初演だった。残念なことに現在の歌舞伎演目には見られない。清玄とさくら姫の物語は歌舞伎や浄瑠璃の外題として、これ以前にも数多く書かれているようだ。

<参考サイト>
絵本番付「恋衣雁金染」立命館大学アートリサーチセンター(ARC) 提供
https://www.dh-jac.net/db1/ban/results1280.php?f1=kunTK64-1065&f46=1&-sortField1=f8&-max=1&enter=portal&lang=ja (2021年8月21日閲覧)

「嵐璃寛」『コトバンク デジタル版 日本人名大辞典+Plus』
https://bit.ly/2UQZgnr (2021年8月21日閲覧)
服部幸雄「市川団十郎」『コトバンク 日本大百科全書(ニッポニカ)』
https://bit.ly/2URrIFN (2021年8月21日閲覧)
「岩井半四郎」『コトバンク デジタル版 日本人名大辞典+Plus』
https://bit.ly/3gBYouy (2021年8月21日閲覧)

清水清玄 その2

前回ふれた清水清玄が登場する豊国作品の概要。

役者絵と言うことはわかるが演目は検討がつかなかったので、主役であろう2名の名前「清水清玄とさくら姫」で検索。ボストン美術館(MFA)にも所蔵作品があることがわかった。これは幸運。MFAはキャプションが充実しているだけでなく画像が高画質なので拡大にも耐えられ、版木の木目まで照らし合わせることができるからだ。

ということで、以下MFAの作品説明を参考にしながらまとめた概要。

左:一陽齋豊国画(さくら姫)右: 香蝶楼豊国画(清水清玄,下部淀平)
BlueIndexStudio所蔵

作品:「清水清玄」「下部淀平」「さくら姫」
絵師:歌川豊国三代(国貞)
版元:加賀安(加賀屋安兵衛;浅草福井町1)
落款・押印:「清水清玄」「下部淀平」香蝶楼豊国/年玉印、「さくら姫」一陽齋豊国(押印なし)
改印:衣笠・村田;1847(弘化4)−1852(嘉永5)
作品サイズ:清水清玄・下部淀平;35.5×25.5cm、さくら姫;35.5x24cm

さて作品画面上にはタイトルらしきものはない。MFAは作品タイトルとしてそれぞれの役者名も記していて、1852(嘉永5)年の「恋衣雁金染(こいごろも かりがねぞめ)」という歌舞伎公演の際の作品としている。
「恋衣雁金染」で検索したところコトバンク内に、河竹新七(2代)作、嘉永5年1月に江戸・河原崎座が初演であったことがわかった。
番付探しで確認できそうだ。

<参考文献>
宮地哉恵子 1997 「国立国会図書館所蔵 幕末・明治期 錦絵・摺物等の版元・印刷所一覧(稿)」『参考書誌研究』第47号66頁

<参考サイト>
「恋衣雁金染」『日外アソシエーツ 歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典』 コトバンク https://bit.ly/3yVDKwp(2021年7月30日閲覧)
豊国III(国貞)『「清水清玄」八代市川団十郎「下部淀平」三代嵐璃寛「さくら姫」三代岩井粂三郎』Museum of Fine Arts, Boston 
https://bit.ly/3gctmcj(2021年7月30日閲覧)

清水清玄

豊国による清水清玄の登場。

最近になくドラマティックな場面の錦絵だが、ストーリーは知らない。ただ、漫画やアニメに出てくる気が立ったネコのような髪型の青ざめた男の顔は記憶にある。清水清玄とはこの男。

一陽齋豊国画(さくら姫)/ 香蝶楼豊国画(清水清玄)BlueIndexStudio所蔵

一度見たら忘れられない強烈なインパクトを残す狂気の清玄。豊国自身もお気に入りのようで、他の一枚物の錦絵にもこの表情のまま使われている。加えて彫師の高度な技術が目を引く髪の毛やひげの極細の彫りがみられる作品としても知られている。

画像のとおり、残念ながらカビや染み、折れ、破れ、虫食いがかなりひどい。他の作品だったらご免こうむったかもしれない。紙作品の宿命とは言え厳しい保存環境による長旅であったことが想像され、紙の作品好きとしては通り過ぎることができなかった。

「写楽画」という署名の春英作品 その2

はからずもふたたび春英作品の署名偽装事件発見。

前回同様、モデルは二代目嵐竜蔵。
左、「東洲斎寫樂画 」の署名に極印と蔦屋重三郎(耕書堂)の版元印。
右が「春英画」に岩戸屋喜三郎(栄林堂)の丸に岩の版元印で、こちらがまっとうな作品。
いずれも大判縦型の作品で長さはほぼ同じのようですが、右の春英署名の用紙の幅が3cm弱広いために画像が縦横のバランスに差が出ている。

勝川春英画(1795寛政7年)
二代目嵐竜蔵の寺岡平右衛門
資料番号:21.5965 MFA所蔵
勝川春英画(1795寛政7年)
二代目嵐竜蔵の寺岡平右衛門  
資料番号:21.5965  MFA所蔵

どう見ても同じ板。MFAのいずれのキャプションにも相互の作品の存在と、署名落款の差し替えのことが説明されている。さらに写楽名になってしまった作品には写楽本人の大首絵シリーズでも使われた雲母を、後から塗布されているとのこと。背景の紫がかった色がそれだ。光沢があって高級感を出すにはピッタリだったはず。そして店頭では高価な値段で売られたのだろう。

MFAは作品年を「1795(寛政7)年4月」としている。「都座」「仮名手本忠臣蔵」の表記もあるため、この点も作品年月の根拠の一つとも考えられる。
改印制度は1790(寛政2)年には始まっていて、丸に極の印は最初期のもの。写楽名の作品だけに極印があるのが気になるところ。

ここで忘れてはいけなないのが写楽の活動時期。1794(寛政6)年5月から翌1795(寛政7)年1月と言われている。ということは、この贋署名の作品が市場に出たときはすでに絵師写楽は存在しなかったということになる。
現在、長い年月を経て歴史の結果として写楽の活動期を知ることができたわけで、当時の人々にしてみれば数ヶ月のブランク後に写楽作品が売り出されても疑問を感じなかったかもしれない。ネットもSNSもない時代のこと、口伝てやかわら版などでの情報伝達の力量も気になるところだ。

偽署名に版元印を使われた蔦屋重三郎はどうだろう。本来であれば黙っていたとは思えないが、全力でプロデュースした絵師写楽も活動を停止してしまった蔦屋重三郎の最晩年。1797(寛政9)年に脚気で亡くなったところからすれば、数年前から病で気力も衰えていたのかもしれない。

春英名の方に極印がないということは、1795年の段階では写楽名の方だけが店頭に並んだのではないかと想像する。春英名の方はどこかに保管されていたものが改印制度が廃止以降に市場に出たのかもしれない。…春英は知っていたのだろうか。

春英の面目躍如となる作品をお伝えしたいものだ。

<参考サイト>
勝川春英《二代目嵐竜蔵の寺岡平右衛門》Museum of Fine Arts, Boston 
https://bit.ly/3hq3WYG
勝川春英《二代目嵐竜蔵の寺岡平右衛門》Museum of Fine Arts, Boston 
https://bit.ly/3yslGtt