北斎のマイナーな弟子

今回北斎展を見ていて、普段以上に雅号が気になった。
北斎自身は30以上の雅号を持っていたと聞いている。使い捨て感覚の家の引っ越し93回の数値には遙かに及ばないが、ここまでの数になると見る側としては注意がいる。

北斎の雅号は初期に学んだ勝川春章時代の春朗や、琳派の俵屋宗理から襲名した二代宗理(後に宗家に返す)は別にして、北斎となって以降「戴斗」「為一」「雷斗」「卍」ほか多数を使い分け、気が向くと弟子に与えたりしたようだ。例えば北斎長女、如風の元夫柳川重信も北斎から「雷斗」引き継いだ。号を複数持つことはめずらしいことではないが、北斎周辺の混乱はなかなか手強そうだ。

例えば、卍斎一昇と北仙、卍斎が同一人物かもしれないという話。おなじみの浮世絵第一人者、キュレーターのトンプソン氏はこの人物について「北斎門徒としてはかなりマイナーな絵師であったが多くのドローイングを所持していた可能性がある」ということで注目していた。これにはMFAならではの理由がある。つまりMFA日本美術初代キュレーターのアーネスト・フェノロサ(1890−96在任)の次の話による。

膨大なコレクションをMFAに寄贈したウィリアム・スタージス・ビゲローは1885年、若いときに北斎の工房で学んだという老人の工房でドローイングを購入したとのこと。北斎の没年は1849年なので、ビゲローはその後40年にも満たないうちにこの老人に会っていることになる。そしてその時購入した一作《幟の下絵?韓信胯潜之図》の左上角にビゲローよって「北斎の生存する最後の弟子から購入ー東京-1885-6 北斎 WSB」(実際は英語)とかすかな鉛筆書きが添えてあるのだ。もしかしたらこの老人がドローイングをたくさん所蔵していたマイナー絵師だったのかもしれない。

作者不詳(伝葛飾北斎)幟の下絵?韓信胯潜之図
MFA William Sturgis Bigelow Collection, 1911. 11.46038

《幟の下絵?韓信胯潜之図》は紙を貼り次いで描かれたもので、大きな幟のようなもの下絵にみえる。ビゲローは北斎真筆と信じて購入したようだが、現在の調査では明らかになっておらず弟子などの可能性が高いとのことだ。

ビゲロー来日のころ、著名浮世絵師門徒の工房がまだ存在していた。こういう話を聞くと作品の息吹がよりリアルに感じられる。

幕末からの廃仏毀釈や明治の急激な近代・欧米化で国民にとっては自国の文化がなおざりなっていた時期だったのだろう。全く異なる文化を生きてきたビゲロー(もちろんエドワード・モースやフェノロサも)が日本の美術品に価値を見いだして救いだしてくれた。(おかげで関東大震災も免れた!)

MFAに所蔵されている日本の美術品は、つくづく幸せ者だと思う。

<参考>
Sarah E. Thompson, Curator for Japanese Prints, Art of Asia
「Hokusai and His Students」 (Lecture: 5/20/2023, MFA)

作者不詳(伝葛飾北斎),幟の下絵?韓信胯潜之図
MFA William Sturgis Bigelow Collection, 1911.  11.46038


北斎とピカソ

MFAの北斎展期間中にはテーマ別の講演も行われたが、そのとき北斎の妖怪画や作品の理解に役立つような日本の風習や考え方などをテーマにした回があった。そのなかでは北斎の艶本《喜能会之故真通》の《海女と蛸》に影響を受けた画家としてパブロ・ピカソ(1881−1973)が登場したのだ。

19世紀後半のジャポニスムといえばパリの印象派やアール・ヌーボーの工芸作品に気を取られ、当時活動期初期のピカソの作風を浮かべると、ジャポニスムの影響はなおさらイメージしにくい。しかし春画となると話が違う。ピカソの女性関係、そうした経験を投影するようなミノタウロスの存在だ。ギリシャ神話、クレタ島ミノス王がポセイドンに捧げるはずだった美しい牡牛に魅せられてほかの牡牛とすり替えたことに怒ったポセイドンが、美しい牡牛を凶暴にし王妃パーシファエ(キルケの妹でアリアドネの母)には牡牛への恋心を抱かせた。そうして生まれたのが牛頭人身のミノタウロスだ。ピカソはこの怪物を性欲、野生、凶暴性、そして絶望や罪悪感などの擬人化とし、自分自身を象徴する存在としてもたびたび描いている。ミノタウロスはピカソの作風が変わりながらもたびたび現れていることを思い出すにつれ、ピカソと春画、ひいてはジャポニスムとの関連性が確かに浮かんでくるのだ。

そんなわけでオンライン上で「海女と蛸、ピカソ」で検索すると、関連を裏付ける情報が簡単に得られて驚いた。手っ取り早いところではWikipedia英語版《The Dream of the Fisherman’s Wife》に、《Dona i Pop》 (カタルーニャ語, 英訳”Woman and Octopus”) (1903), private drawingという女と烏賊のような蛸が描かれた作品が掲載されている。もう一作、バルセロナのピカソ美術館には紙に色鉛筆などで描かれた《Le Maquereau(鯖)》(1903)が所蔵されている。これは先の《Dona i Pop》によく似た作品だ。 両方ともあきらかに北斎の《海女と蛸》を髣髴とさせる作品だ。

さらに、この美術館のサイトによれば、2009年11月から2010年2月にかけて「Secret Images. Picasso and Japanese Erotic Prints」と題する展覧会が同館で開催されていたことがわかった。浮世絵版画とピカソ作品との関連を明らかにする展示で、全体像はこのサイト上で現在も閲覧できる。会場風景として撮影しているため詳細は見えにくいが、作品にとしては、ピカソ作品はほぼ銅版画やドローイング、浮世絵の方は春画のほかに美人画や絵本の類、名所絵とその制作過程などのほか、版木や絵の具など、木版画の道具も展示されていてる。とにかく春画はかなり引いて撮影していて判別がつきにくいものが多いが、会場内で使われていたと思われる説明内容や、ゆったりと着物を羽織って寛ぐピカソの写真からも、彼のジャポニスムや浮世絵版画への傾倒ぶりは明らかだ。何しろ展示している浮世絵がピカソのプライベートコレクションだというのだから、これ以上の証拠はないだろう。

バルセロナは1895年、ピカソが10代半ばで移り住んで以来パリに移住後も含めてたびたび往き来していた土地だ。ピカソ美術館はスペインとフランスに5館も存在するが、そういう縁もあってバルセロナはピカソの存命中に早々に開館されたのかもしれない。

存命中と言えば、ピカソや北斎に関しての著書が多い美術評論家の瀬木慎一は生前、ピカソと個人的に親しく交流があったことで知られている。ピカソが北斎に共感し、北斎が自らを「画狂老人」と呼んだことを自分にも重ねていたとのはなしもどこかで見かけた。ピカソの日本文化への興味、当時のジャポニスムへの傾倒ぶりなど、瀬木慎一の書籍には詳しく書かれているのだろうが、ebookになっていない著書がほとんどで、現状では確認できないのが残念だ

<参考サイト>
Museu Picasso, Barcelona Exhibition「Secret Images. Picasso and Japanese Erotic Prints
05/11/2009 – 14/2/2010」
https://museupicassobcn.cat/en/whats-on/exhibition/secret-images-picasso-and-japanese-erotic-prints#archivo

Pablo Picasso《Le Maquereau》(1903)
Museu Picasso, Barcelona Inventory number: MPB 50.497
https://museupicassobcn.cat/index.php/en/collection/artwork/le-maquereau

Wikipedia英語版「The Dream of the Fisherman’s Wife」(海女と蛸)https://en.wikipedia.org/wiki/The_Dream_of_the_Fisherman%27s_Wife

如風 

現在ボストン美術館では北斎と北斎から影響を受けた作品を紹介する特別展が行われている。
影響を受けたといえば印象派やアール・ヌーボーを考えがちだか、今回は北斎と北斎門下生や影響を受けた同時代の絵師の作品が多く取り上げられていた。

その中に、如風(じょふう)と署名された作品があった。

肉筆画《柳下三美人図》三連作。透明感のある彩色が柔らかな雰囲気を醸し出している。一見して一人の絵師の連作のように見えた。しかし署名はそれぞれ異なっていた。

柳下三美人図 (1820s) MFA Fenollosa-Weld Collection, 1911    
 11.4644.1, 11.444.2, 11.4644.3

如風(右)
《柳下三美人図 親子》

応斎(中央)
《柳下三美人図 遊女と禿》

気斎(左)
《柳下三美人図 船宿の仲居》

3作の署名が異なるにもかかわらず画風が酷似している。

北斎長女如風子画帖 (1820s)
MFA William Sturgis Bigelow Collection, 1911   11.934
6

そして次の画像、前の肉筆画3作の習作らしき頁が開かれていた。そして何よりもこの画帳には手書きのタイトルがつけられているというのだ。それが《北斎長女如風子画帳》。つまり、北斎の長女である如風のスケッチを集めたて台紙に貼り付けたアルバムなのだ。

冊子状のため《柳下三美人図》との関連の頁を開いたため、タイトルは自ずとかくれてしまったのだ。タイトルを見られなかったのが残念。筆文字を理解できる鑑賞者が少数派と考えて、酷似性がわかりやすい作品頁を選んだのだろう。できれば画像でもかまわないから、タイトル部分が見たかった。

さてこのアルバムに添えられたキャプションによれば、この画帳のタイトル《北斎長女如風子画帳》が、如風を北斎の長女と考える根拠となったようだ。北斎には2人の妻に息子が2人、娘が3人いた。如風に先んじて有名なのは肉筆画《三曲合奏図》で知られる応為だ。日本では最近、アニメやTVフィルムなどにも取り上げられている。お栄ともよばれ三女であったから、未だ知られていない次女も絵師であった可能性もここで指摘している。当時女性の絵師はまれであったが存在は知られていて、それらの女性絵師たちの多くは有名絵師の娘やその妻だったという。絵画という特殊技術を習得するにもってこいの環境なのだからそれは容易に想像できる。

如風はお美与ともよばれ、北斎門下の柳川重信(1787−1832)の妻で男子をもうけた後に離縁している。父も夫も絵師であり、さらに江戸の庶民の住宅事情から想像するに彼女も妹の応為同様にそうした創作環境にドップリと浸かった暮らしをしていたのだろう。

さて先の作品に戻る。《柳下三美人図》には如風のほかに応斎、気斎。《北斎長女如風子画帳》も如風のほかに気斎と南斎という署名がある。応斎、気斎、南斎という画家は現在までに特定されていないとのこと。すべてが別々の絵師である可能性はもちろんあるが、このうちの1人、あるいは複数が家族かもしれないし、すべて如風の別名という可能性はキュレーターのトンプソン氏も指摘していた。

そうなるとやはり署名に目が行く。まず気になるのは、《北斎長女如風子画帖》の左の猪らしき動物を描いた作品の署名が、改めて画像で見ると「南」斎というより「応」斎にみえるきがするが。《柳下三美人図》の応斎と気斎の「斎」も筆圧の特徴がとてもよく似ている。どれも似た筆跡だという印象は拭えない。

現在のところ、ここで取り上げた如風(応斎、気斎、南斎)の作品はまだMFAのオンラインコレクションでは見られないようだ。展覧会で興味を持った人も多いだろう。画像下のアクセスナンバーで閲覧できる日も近いだろう。

それにしても、こうした新たな発見とそれを裏付ける絵画資料がMFA内調査でここまで完結するのだ。所蔵作品の潤沢な内容と膨大さをあらためて見せつけられた気がする。

如風の存在を知り、その作品に直に(ケース越しではあったが)触れることができたのは大収穫だった。

参考
Special Exhibition 「Hokusai: Inspiration and Influence」 (March-July, 2023 MFA)

Sarah E. Thompson, Curator for Japanese Prints, Art of Asia
「Hokusai and His Students」 (Lecture: 5/20/2023, MFA)

葛飾応為『三曲合奏図』William Sturgis Bigelow Collection 1911 11.7689
https://collections.mfa.org/objects/26487/three-women-playing-musical-instruments?ctx=176bf12f-7d29-4f4d-b23b-30deccf5fe43&idx=0

長登とファン・ゴッホとジャポニスム

ウェブ検索によれば、貞斉泉晁作の錦絵《尾張屋内長登》は2つの美術館で所蔵が確認できる。ボストン美術館に2点、もう1点はアムステルダムのファン・ゴッホ美術館。

ファン・ゴッホ美術館(以下VGM)はフィンセント・ファン・ゴッホ作品の展示公開を目的に1973年に開館した。1890年の画家フィンセントの死後、彼の作品などは弟のテオ、その妻を経て夫妻の息子フィンセント・ウィリアム・ファン・ゴッホ(伯父と同名)に相続されていた。作品をまとまった形で保管・公開したいというこの甥フィンセントの意思によりファン・ゴッホ美術館財団が設立され、オランダ政府が出資して美術館が建設された。ファン・ゴッホ作品のほか交流のあったポール・ゴーガンやトゥールーズ=ロートレック、彼が好んで模写をしていたバルビゾン派のミレーの作品なども所蔵する。ちなみに今年2023年、同館は50周年を迎えるとのこと。

VGMによれば、彼が1886−87年に購入した660点の浮世絵版画のうち、少なくとも512点が美術館に所蔵されているという。そして《尾張屋内長登》もフィンセントが収集した浮世絵版画の1つだったのだ。

Van Gogh Museum (公式サイトより)

1886年フィンセントはパリのアートディーラーのマネージャーとして働くの弟テオ宅に居候を始める。このころフィンセントは、通っていた画家フェルナン・コルモン(Fernand Cormon, 1845–1924)の画塾やテオを通して、モネやトゥールーズ=ロートレックなどの印象派の画家たちと出会う。そしてファン・ゴッホ兄弟は、1870年から浮世絵版画と工芸の店を経営していたジークフリート・ビングから浮世絵版画を買い始めるのだ。

同年の5月に刊行された雑誌『パリ・イリュストレ』の日本特集はシャルル・ジロが編集長を務め(馬淵,2011)、林忠正の論考や歌麿、春栄、豊国、北斎の図版が掲載された。これもフィンセントに多大な影響を与えたといわれている(神津,2017)。ビングについては以前ベルト・モリゾ関連で触れたが、もう少し先の1888年5月に『芸術の日本』を創刊している。1891年4月まで続いた月刊誌でフランス語、英語、ドイツ語の3カ国語で出版された。各号の表紙は絵画や浮世絵がカラー印刷され、論文1本と10点の色刷り複製版画が含まれたものだった(吉田,2014)。こうした質の高い出版物の数々からも、当時のジャポニスムの潮流の大きさがうかがえる。

フィンセント・ファン・ゴッホの作風は1886年以降、著しい変化が見られる。パリで出会った印象派や浮世絵に触発されたことはいうまでもない。そのうえこの1886−87年は、絵の具の質が大きく向上した時期でもあった(秋田,2019)。つまり、土由来のくすんだ色から鮮やかな色彩表現が可能になったことは「日本のような明るさ」を描こうと鮮やかな色を必要としたファン・ゴッホにとって、とても幸運なことだったのだ。

こうして描かれたフィンセントの浮世絵版画と日本への熱狂は、色彩豊かな作品によって今や誰もが知るところ。浮世絵から受けた豊かな色と明るい印象を日本そのものに重ね、地中海性気候の南フランス・アルルを日本に見立てて引っ越したのはそれから約2年後のことだ。

フィンセント・ファン・ゴッホは彼にとって異文化そのものだった浮世絵版画を自らの技術とアイディアに昇華し、独特のスタイルを確立した。独創的な解釈、彩度の高い絵の具使いや大胆な筆致で描かれた晩年の作品が国境を越えて多くの人々を魅了するのは、それらの作品の一つ一つに「庶民の芸術」と呼ばれた浮世絵版画の魂が受け継がれたからなのかもしれない。

参考文献
秋田麻早子 2019「絵を見る技術ー名画の構造を読み解く」朝日出版社
神津有希編 2017「北斎の受容およびジャポニスム関連年表」『北斎とジャポニスム HOKUSAIが西洋に与えた衝撃』国立西洋美術館 読売新聞東京本社 pp.314-323
吉田典子 2014「ベルト・モリゾと日本美術(2):麦わら帽子の少女における浮世絵の画中画について」『Stella』33, pp.213-236.  Société de Langue et Littérature Françaises de l’Université du Kyushu

参考サイト
馬淵明子『フランス人コレクターの日本美術品売立目録』紹介サイト
https://www.aplink.co.jp/synapse/4-86166-059-7.html

「Van Gogh Collects: Japanese Prints」Van Gogh Museum
https://www.vangoghmuseum.nl/en/japanese-prints

「Biography, 1886 – 1888 From Dark to Light」Van Gogh Museum
https://www.vangoghmuseum.nl/en/art-and-stories/vincents-life-1853-1890/from-dark-to-light

尾張屋内 長登

令和4年最初の錦絵は《尾張屋内長登》。

桜の下、禿を引き連れて歩く尾張屋の花魁長登。肩から袖にかけては眼光鋭い龍に抱かれ、裾からは猛々しい虎が花魁を見上げるという人目を奪う打ち掛けを纏っている。古来から縁起が良いとされる竜と虎。おそらく金糸などで立体的に刺繍されたものと想像する。竜や虎、鳳凰など力や格を表す柄は花魁の打ち掛けとして好まれたもの。金の光を放つ大胆な柄が黒地に生えて美しい太夫が纏えば粋の極みであっただろう。

打掛けとは対照的に、掛下は白地に青の花菱紋や蔦柄が描かれたやさしく清々しいもの。紗綾形のエンボスも施されて豪華さが増している。エンボスは半襟と頭上の桜にも使われている。前結びの帯もまた可憐な八重桜。簪の飾りはかたばみのようだ。個性的なデザインを甘辛とりまぜてバランスのよい豪奢で完璧なコーディネート。花魁の掛下と白地に青にあわせた禿の髪飾りも菱にかたばみのようにみえる。長登のほかの錦絵では、この文様が打掛けの背紋に使われている*ので、長登の紋だと考えられる。

尾張屋内長登 BlueIndexStudio所蔵

ところで、このサイトBIS所蔵版には落款、版元印、改印がない。図柄を元にGoogle検索した結果、ボストン美術館(以下MFA)とヴァン・ゴッホ美術館(以下VGM)に酷似の錦絵が所蔵されていることがわかった。
BIS版の真偽は不明であるとお断りしたうえで、貞斎泉晁画《尾張屋内長登》をみていこうと思う。

貞斎泉晁は1812(文化9)年生まれで没年は不詳。渓斎英泉の弟子で美人画を得意としていた。MFAは泉晁の活動年を1830−1850年、作品制作年は江戸期というにとどまっている。VGMは制作年を1835-1839年頃としている。
版元は耕書堂(蔦屋吉蔵、南伝馬町一丁目)。改印は極で、極印単独の第二期(1815−1842年)と考えられ、MFAによる泉晁の活動年を考慮しても1830−42年が制作と考えられる。VGMの制作年1835−39年もここに含まれる。
花魁と禿が着飾って歩く姿は大変人気のテーマで、多くの絵師が競って使った画題だ。泉晁もこれと同じようなレイアウトでシリーズ化し、ほかの花魁も描いている。また長登自身も泉晁のほか渓斎英泉による錦絵も多く残っている。彼女の人気のほどもうかがえる。

尾張屋内 長登(江戸時代)貞斎泉晁
MFA Accession Number: 11.37466

制作時期の参考に『吉原細見』も検索してみた。資料が見つかったのは1834(天保5)年、1836(天保7)年、1837(天保8)年、1842年(天保13)年、1844(天保15)年の5年分。前後余裕を持って確認してみた。これらの資料の「尾張屋」の欄のすべてに「長登」がみられた。このことで、同時期に尾張屋に長登が存在したことは確認できた。

BIS版は桜のうえに黒のぼかしがあって夜桜のような印象だが、他のMFA版やVGM版にはぼかしはない。BIS版は打掛けの色も紫の褪色というよりは元来藍が使われたのではないかと想像する。そして絵師の落款や版元印、改め印はなく、ちょうどそれらがあるべき位置に墨をこぼしたようなシミがある。墨のたまりとにじみの染み具合は古さを感じる。

さて、落款、版元印、改印がないということは何を意味しているのか。錦絵の場合はそうした印は黒摺り部分のデザインといっしょに版木に彫り込まれるのが普通。もしオリジナルの版木を使いながら印を摺りたくないとしたら、意図的に摺らない方法が必要になる。つまり印の部分だけを版を潰したりするということだ。真作をもとにして新たな版木を用意して摺ることも可能だろう。明治あたりはまだ腕のいい浮世絵職人はたくさんいたはず。
ところで改印制度は明治8年を最後に撤廃される。つまり明治9年からは錦絵出版に規制がないのだ。

通常版木は版元が指定する枚数を摺ったあとは版を潰して新たな版に再利用されるといわれる。それができないほど使い込んだものは薪になったそうだ。オリジナル錦絵をもとに新たな版木を彫り、摺って売りだすに値するような際立った特徴と人気の錦絵にも見えず、手間と諸経費からも割に合うとは思えない。まだ潰す前の版木を何らかの形で手に入れて、印の部分を潰して摺った一枚と考えるほうがまだ現実的な気がする。

<参考文献>
石井研堂 1920「錦絵の改印の考証:一名・錦絵の発行年代推定法」伊勢辰商店

<参考サイト>
「Nagato of the Owariya, from an untitled series of courtesans under cherry blossoms 尾張屋内 長登」ボストン美術館
https://collections.mfa.org/objects/462140/nagato-of-the-owariya-from-an-untitled-series-of-courtesans?ctx=be5f8e1c-867c-43ba-bf58-6d99b7e78a69&idx=1

*「Evening Bell at Mii-dera Temple (Mii no banshô): Nagato of the Owariya, No. 1 from the series Eight Views in the Yoshiwara (Yoshiwara hakkei) 吉原八景 一三井の晩鐘 尾張屋内 長登」ボストン美術館
https://collections.mfa.org/objects/216876

「The Courtesan Nagato of the Owari House, from an untitled series of courtesans under cherry blossoms」ヴァン・ゴッホ美術館 アムステルダム
https://www.vangoghmuseum.nl/en/japanese-prints/collection/n0450V1962

1834(天保5) 「吉原細見」蔦屋重三郎 早稲田大学古典籍総合DB
https://waseda.primo.exlibrisgroup.com/discovery/fulldisplay?docid=alma991021076419704032&context=L&vid=81SOKEI_WUNI:WINE&lang=ja&search_scope=MyInstitution&adaptor=Local%20Search%20Engine&tab=LibraryCatalog&query=title,contains,%5B吉原細見%5D&offset=

1836(天保7)「吉原細見」蔦屋重三郎 早稲田大学古典籍総合DB
https://waseda.primo.exlibrisgroup.com/discovery/fulldisplay?docid=alma991021077239704032&context=L&vid=81SOKEI_WUNI:WINE&lang=ja&search_scope=MyInstitution&adaptor=Local%20Search%20Engine&tab=LibraryCatalog&query=title,contains,%5B吉原細見%5D&offset=0

1837(天保8)「吉原細見」伊勢屋三次郎 早稲田大学古典籍総合DB
https://waseda.primo.exlibrisgroup.com/discovery/fulldisplay?docid=alma991021077379704032&context=L&vid=81SOKEI_WUNI:WINE&lang=ja&search_scope=MyInstitution&adaptor=Local%20Search%20Engine&tab=LibraryCatalog&query=title,contains,%5B吉原細見%5D&offset=0

1842(天保13)「吉原細見」星野屋源次郎 早稲田大学古典籍総合 https://waseda.primo.exlibrisgroup.com/discovery/fulldisplay?docid=alma991021078079704032&context=L&vid=81SOKEI_WUNI:WINE&lang=ja&search_scope=MyInstitution&adaptor=Local%20Search%20Engine&tab=LibraryCatalog&query=title,contains,%5B吉原細見%5D&offset=10

1844(天保15)「吉原細見」星野屋源次郎 早稲田大学古典籍総合https://waseda.primo.exlibrisgroup.com/discovery/fulldisplay?docid=alma991001473209704032&context=L&vid=81SOKEI_WUNI:WINE&lang=ja&search_scope=MyInstitution&adaptor=Local%20Search%20Engine&tab=LibraryCatalog&query=title,contains,%5B吉原細見%5D&offset=0

ベルト・モリゾ

ベルト・モリゾといえばエドゥアール・マネが彼女をモデルに描いた《すみれの花束をつけたベルト・モリゾ》(1873)で知られる。しかしモリゾ自身も印象派の画家であり、近年はジャポニスムに影響を受けた画家の一人として研究が進んでいる。

さて、ベルト・モリゾの《髪を結ぶ少女》。モリゾは日常的な風景や家族間の親密な場面を捉えることが得意だった。この作品も、そんなモリゾの家庭的で穏やかな視線が感じられる。どこを見るともない少女の眼差し。慣れた手つき。彼女の意識は指先は集中しているようだ。

この作品は2017年に東京国立西洋美術館で開催された「北斎とジャポニスム展」において、北斎の『絵本庭訓往来』とともに取り上げられた。

Young Girl braiding her Hair(ca1893) Berthe Morisot
Ny Carlsberg Glyptotek, Danmark

次は北斎の『絵本庭訓往来』。モリゾの《髪を結ぶ少女》に影響を与えた作品とされる。
3人の女性が歯を磨いたり、体を拭き清めたり、髪を櫛で整えたりという女性の身繕いの様子が描かれている。『絵本庭訓往来』は初等教育のための今で言えばテキスト、衛生に関する基本的な習慣を取り上げているのだろう。

絵本庭訓往来 初編(1828)北斎 永楽屋東四郎版
ARC古典籍ポータルデータベース:#Ebi0912

この絵本、日常に観察眼を向けていたモリゾにとっては親しみが持てるテーマで、インスピレーションを掻き立てそうな風景だ。とはいえ、絵本庭訓往来の北斎もモリゾも、どこの国でも見られそうな普遍的な生活の場面を題材として扱ったわけで、この点だけをとって北斎作品からのインスピレーションによるモリゾ作品というのは少し性急な気がしなくもない。

ここで「北斎とジャポニスム展」から離れて、こちらはモリゾの同時期の作品《麦わら帽子の少女》。

Julie Manet with a straw hat*(1892)
www.wikiart.org

伏し目がちに座る麦わら帽子の少女。その右肩上の画中画が眼をひく。2人の人物。2人は水面に浮かぶ小舟の上に立っているように見える。前方の1人は胸元をV字に整えた青色の丈の長い衣装を身につけ、ウエストあたりを同系色の帯のようなもので止めている。印象派特有の筆触がよくみえるタッチでも東洋の雰囲気は見逃せない。そして浮世絵の夏の風物詩、隅田川の船遊び思い出す。青い衣装の人物が、上半身を捻りながら向きを変えているようなポーズもいかにも浮世絵風にみえるのだ。

この画中画に関しては現在のところ、2つの浮世絵版画の影響の可能性が指摘されている。
1作目は、鳥居清長の3枚続き《真崎の渡し舟(隅田川の渡し舟)》のうちの真ん中の作品で、女性2人と舳先が描かれた一枚。

A Ferry on the Sumida River 真崎の渡し舟(1787)鳥居清長
MFA Accession Number: 11.13875, 11.13902, 57.585

もう1作が日本では《大川端夕涼》と呼ばれる下の作品。同じタイトルで清長作もあるのだが、こちらは喜多川歌麿の作品。この場合もやはり真ん中の一枚がモリゾとの関わりを指摘されている。

Enjoying the Evening Cool Along the Sumida River( c. 1797–98)Kitagawa Utamaro
The Cleveland Museum of Art, The Fanny Tewksbury King Collection 1956.753

モリゾの画中画は2人とも船上の立ち姿。しかし清長の渡し舟の方は1人は舟に座っている。一方この歌麿作の方は2人とも立ち姿でしかも川縁を歩いているようだ。さらに、中心の女性は子供の手を引いているから登場人物が一人多い。しかし2人の女性の身体の向きがモリゾのそれとよく似ている。強いて言えば着物の色も、モリゾ作の後方の女性の着物が歌麿作の右側の女性の(経年褪色の可能性はあるが)それに近いようにもみえる。

モリゾ画中画で前に立つ女性に関しては、3作品いずれの女性も、体の向く方向に対して顔は反対側を向いている。この点は3作品に共通で美人画によく見られるポーズだ。
清長の女性など少し腰を屈めながらもやはり体と顔の方向は異なってる。歌麿作の女性は、肩を後ろにひいた反動で少し胸部を張った姿勢に上半身のひねりが加わった反り身と言われるポーズが見られる。これは歌麿女性の特徴と言われる。この点はモリゾ作の青い衣装の女性もよく似て見える。

モリゾは実際にいくつか浮世絵を所有しており、それらは歌麿や清長など美人画であったようだ。当時フランスで日本美術商として知られたジークフリート・ビングが1888年『芸術の日本』という月刊誌の刊行を始めた。そのなかには当時としては高品質印刷の図版も添付されていた。《 真崎の渡し舟》や《大川端夕涼》の3枚続きのうちの左から2枚も添付されていて、モリゾが所有していたと言われる。そして1890年にビングがフランスの国立美術学校で日本版画展を主催した際もモリゾは訪れており、清長の同作品はこの版画展に出品されカタログにも掲載されていた。モリゾはこうした経験から色彩版画にも興味を持ち自らも制作を試みた。

さて《髪を結ぶ少女》に戻ろう。
一心に髪を整える少女の右最上部、開かれた扇がさりげなく描かれている。青の濃淡と竹生のような要や骨の配色から日本の扇の雰囲気が漂う。そして少女の後ろは左約3/4をブラウン系の壁紙のような背景で占めているが、それを縦割りにした1/4の細長いスペースは薄い白っぽい黄土色(砥粉色)が使われている。
そして、《麦わら帽子の少女》においても少女の背景の分割も気になるところだ。

さて、ここまで2つのモリゾ作品と3つの浮世絵を見てきた。
浮世絵のような画中画や扇は、西洋的風景の中にアクセントとして添えられたモリゾの日本趣味とも言える。しかし《髪を結ぶ少女》の縦割りのスペース、《麦わら帽子の少女》の画面分割からは、西洋絵画に日本絵画の画面構成や色使いなど技術的要素を取り入れようとするモリゾの試みが見受けられる。縦長の面は引き伸ばされれば線となり、線の仕事を知らしめた浮世絵にたどり着く。ジャポニスムを研究し実践を試みるなかでモリゾは西洋絵画と異なる「線」の効果を見いだしたのだろう

ベルト・モリゾの作品もジャポニスムの影響を受けた画家として、今後さらに多くの研究が進み、取り上げられると想像している。

*この作品をネット検索すると同一画像の多くが《麦わら帽子のジュリー・マネ》というタイトルになっている。ジュリー・マネとはベルト・モリゾとウジェーヌ・マネ(絵も描いた、エドゥアール・マネの弟)の一人娘。ジュリー・マネについては、母モリゾはじめ多くの印象派画家の肖像画が残されており、それらに見られる彼女の特徴はこの少女とは異なっている。吉田典子氏もこの作品はプロのモデルを使っていることにも言及している。

参考資料
《Young Girl braiding her Hair》Ny Carlsberg Glyptotek(ニイ・カールスベルグ・グリプトテク美術館)https://www.kulturarv.dk/kid/VisVaerk.do?vaerkId=105137
(2022年11月29日閲覧)

《A Ferry on the Sumida River 真崎の渡し舟》Museum of Fine Art Boston
https://collections.mfa.org/objects/682351/a-ferry-on-the-sumida-river?ctx=c143ecdc-69d6-4114-b5d0-5d01d8aaa6ce&idx=15
(2022年11月30日閲覧)

《Julie Manet with a straw hat》(1892)
https://www.wikiart.org/en/berthe-morisot/julie-manet-with-a-straw-hat-1892
(2022年11月25日閲覧)

『Enjoying the Evening Cool Along the Sumida River』 c. 1797–98
The Cleveland Museum of Art, The Fanny Tewksbury King Collection 1956.753

国立西洋美術館 2017「北斎とジャポニスム HOKUSAIが西洋に与えた衝撃」読売新聞東京本社

吉田, 典子 2014「ベルト・モリゾと日本美術(2):麦わら帽子の少女における浮世絵の画中画について」『Stella』33, pp.213-236.  Société de Langue et Littérature Françaises de l’Université du Kyushu

浮世絵とクリムト

黄金様式で知られるグスタフ・クリムトは19世紀末から20世紀初頭オーストリアを代表する画家だ。1897年には古典主義からの脱却を望む芸術家を率いてウィーン分離派(Wiener Secession)を立ち上げた。ウィーン芸術の近代化を目指しヨーロッパ各地で起こった美術と工芸の融合(Arts and Crafts Movement)をウィーンで率いたのはクリムトだった。

ヨーロッパではこの頃「ジャポニスム」といわれる日本趣味・日本美術ブーム。
浮世絵版画の認知は、海外最初の記録はフランスのF. ブラックモンと《北斎漫画》との出会いが始まりと言われている。年代については1856年、1859年など諸説ある。それより前の1851年には最初の国際博覧会がロンドンで開催されたが、日本最初の参加(ごく小規模)は1865年のパリ万博まで待たなければならなかった。そして日本政府としての正式参加は1873年のウィーン万博となった。浮世絵は当時の展示品リストに含まれている(西川, 2007)。この時日本パビリオンは大変な盛況で、ウィーン中が「扇」だらけになったという記録もある(西川, 2007)。こうした経緯から日本文化はクリムトの活動期には芸術家知識人などのあいだですでにある程度認知されていたと考えられる。

クリムトは1862年生まれ。1876年にはウィーン工芸学校で学んだ。父親は金細工師。後のウィーン近代化に向けた力強い活動からも、美術・工芸分野の世界的な動向を注視していたことがうかがえる。そして多くの芸術家同様に浮世絵版画を収集していた(Herring, 2022)。 

エミリア・フレーゲの肖像 (1902)
Wien Museum
Inventory number 45677

左は長年クリムトのパートナーであったファッションデザイナーのエミリア・フレーゲの肖像。平面的で意匠化された画面・配色などにジャポニスムの影響が見られる。

画面の右下に黄色と緑の正方形。

黄色の正方形は名前と姓が改行して書かれています。左右がきっちり合っていて、その下に一行分の空白を取り、最後に作品年を左右に二文字づつ分けて、中心に二文字分ほどの空白をとっている。

緑の正方形は、GとKでデザインされたモノグラム。ウィーン分離派のメンバーは全てモノグラムを持っており、現在のThe Vienna Secession公式サイト*でも見ることができる。

名・姓・作品年を改行しデザインされた署名には、同時期のもう一つの潮流アール・ヌーヴォーの特徴も見える。
しなやかな曲線・曲面と装飾で描かれる画面では文字デザインも入念に行われ、こうしたスタイルの署名は同時期のほかの作家作品でもたびたび見られる。しかしその多くは背景に溶け込むように、いわばあまり目立たない署名が一般的だ。

しかしクリムトの場合、その部分の地色を変えて背景から際立たせている。作品内に使われている二色を用いたとはいえ、黄色の地に黒の署名は特に引き立っていて、フレーゲのデコルテに描かれた幾何学模様以上に目を引く。

名所江戸百景 深川木場 (1856)
歌川広重 国立国会図書館

こちらは広重の《名所江戸百景 深川木場》。浮世絵版画では画題や絵師名などを様々な形に枠取りし、彩色をして際立たせる方法は頻繁に使われる。名所江戸百景シリーズでは、署名とシリーズ名は短冊型、サブテーマが正方形で、右上に2つ並べた赤と黄のタイトルは黒色のはいけいから一層引き立っている。

クリムトを語るとき、琳派との関連を取り上げられることが多い。このフレーゲ肖像の青・緑・黄の色使いにも琳派の雰囲気を感じる。落款風の署名は、肉筆書画の観察によるだろう。そしてクリムトも浮世絵を仕事場の壁にかけていた(Herring, 2022)ということも知られている。

クリムトが《名所江戸百景》を実際に見たかどうかはわからない。この名所画がクリムトのコレクションになかったとしても、浮世絵をはじめとする日本美術からのインスパイアを受けたことは想像に難くない。

クリムトにとってのジャポニスムは、さまざまな時代の潮流と相まった独自のスタイルを生み出すほどに昇華された。そのことがよく伺える肖像画だと思う。

参考文献

《Bildnis Emilie Flöge》Wien Museum
https://sammlung.wienmuseum.at/en/object/820521-bildnis-emilie-floege/

西川智之 2007「ウィーンのジャポニスム 1873年ウィーン万国博覧会」『言語文化論集 』27 (2) 名古屋大学大学院国際言語文化研究科

歌川広重《名所江戸百景 深川木場》国立国会図書館(NDL)デジタルコレクション(2022/10/03閲覧)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1312342?tocOpened=1

博覧会 近代技術の展示場(2022/10/03閲覧)
https://www.ndl.go.jp/exposition/s1/index.html

Sarah Herring 2022 「Why do artists sign their works of art?」National Gallery London
https://www.youtube.com/watch?v=PQqSjrz29eU

*The Vienna Secession公式サイト(2022/10/03閲覧)
(クリムトのこの作品のモノグラムは現在サイトで見られるデザインとは異なっている。)https://www.theviennasecession.com/monograms/

浮世絵版画の伝播2

前回、浮世絵版画がどのように海を渡って伝搬されたかについてボストン美術館キュレーター、セーラ・E・トンプソン氏の見解から探ってみた。

トンプソン氏は一般にもよく認知された「陶磁器輸出の梱包材説」の元となったであろう美術史家レオンス・ベネディット(Léonce Bénédite, 1859-1925)の記録を自らの経験も含めて解釈した結果を述べていた。その際トンプソン氏は、年代についても独自の見解を示していた。

それは、版画家・図案家フェリックス・ブラックモンが印刷職人オーギュスト・ドラートルの工房で『北斎漫画』の一冊に遭遇したという事実はベネディットの記憶する1856年ではなく、1859年の出来事ではないかというものだ。

その根拠は、1858(安政5)年10月9日(グレゴリオ暦)に日本フランス間で日仏修好通商条約が締結されているということ。この点からトンプソン氏は1856年ではなく「1859年のことであるとするほうがもっともらしく思われる。」と記している。

美術史家ベネディットはこの事を1905年になって発表している。つまり約50年の年月が経過しているわけだ。通商条約締結後と考える方が確かに無理がなさそうな気がする。

浮世絵版画の伝播

「国芳・国貞展」のカタログに寄せられたセーラ・トンプソン氏の文章の中で、浮世絵版画のヨーロッパ伝播についても綴られている。

浮世絵は遅くとも18世紀後半にはヨーロッパにもたらされていた。しかしヨーロッパの芸術家の目に触れ始めたのは19世紀半ばまで待つことになる。1858(安政5)年、日本はアメリカ・イギリス・フランス・ロシアとそれまでも通商関係にあったオランダを含む5カ国と通商条約を締結して開国。これによって通商は活発化し、浮世絵のヨーロッパへの上陸量も増えたのだろう。

1905年に発表された美術史家レオンス・ベネディット(Léonce Bénédite, 1859-1925)の記事はフランス人芸術家と浮世絵版画の最初の出会いとしてよく知られている。
版画家で図案家のフェリックス・ブラックモン(Félix Bracquemond, 1833−1914)は印刷職人オーギュスト・ドラートルの工房で、ドラートルのところに日本から届いていた磁器製茶器を収めた木箱の中にあった『北斎漫画』に出会ったというものだ。

トンプソン氏は、この時の『北斎漫画』がどのような状態で箱の中にあったかについて次のように述べている。

  「おそらく木箱の角の小さな隙間に詰めることで、藁で包まれた陶磁器をしっかりと元の位置に留めるためためのものであった。(筆者の見解では、浮世絵版画が輸出される陶磁器の梱包材として使用されたというのは、おそらく広く知れ渡ったこの逸話に基づく誤解である。事実、そういった習慣に関する直接的な証拠はこれまで一つも見いだされていない。)」

つまりトンプソン氏は、浮世絵版画は器などを直接包むためというよりは、そうしたものを木箱の中で固定するために隙間を埋めるために使われていたのだろうと理解している。

浮世絵版画が陶器の緩衝材としてヨーロッパに上陸したという話は個人的にも相当昔から記憶にあった。そのイメージは例えば、有田焼の器を浮世絵版画で“包んでいた”という感じ。本やTVのドキュメンタリーなどで見た記憶かもしれない。

しかし浮世絵版画の動向に目を向け始めてからこのかた、何かを包んでいたような形跡を残した作品を個人的にも見たことがなく、長い間疑問を抱いていたのだった。というのも色刷りの紙についた皺を存在がなくなるまで伸すにはそれなりの手間と技術が必要で、容易なことではないと思うからだ。

トンプソン氏の見解のように、浮世絵版画が隙間を埋めるために使用されたとなれば、茶碗を包んでできるような皺に比べれば平な形状で海を渡ったはず、フランスの芸術家や好事家に見出されやすい状態だったに違いない。

参考文献
Museum of Fine Arts Boston 2016『ボストン美術館所蔵 俺たちの国芳わたしの国貞』光村印刷 p.212-213

うつぎ

旧暦の4月は卯月。

卯月(うづき)で思い出すのは「夏は来ぬ」という唱歌にも歌われる「卯の花」。
卯の花はまた「ウツギ(空木)の花」ともよばれる。空木は落葉低木で、主な生息地は日本や中国とのことですが、日本では5月から6月頃に小さな白い花をたくさん咲かせる。

さて卯月(うづき)といえば、ウツギ。「打つ木」、砧。

以前、国芳作の《六玉川 摂津国擣衣の玉川》で子供をおぶった女性の砧打ちが描かれていた。この作品にはウツギの花は登場しない。ほかの絵師の「六玉川 摂津」を題材としたものも背景に紅葉やススキ、秋の和歌など秋の気配が描かれている。

つまりこれらの浮世絵は「秋の季語 砧」という文学的な流れから描かれたもので、ウツギの花との関連は取り上げていないということ。

4月ー卯月ーウツギー打つ木ー砧

そう簡単には繋がらない。