アハモメント

アハモメント(Aha! moment)、アハ体験、エウレカ効果(Eureka effect)。

いわゆる閃き体験のこと、ある瞬間突然に未知のものごとを認知することで、ドイツの心理学者カール・ビューラー(Karl Bühler)によって提唱された。

わかりやすい例として、アイザック・ニュートン(Isaac Newton)が、りんごの木からりんごが落ちるのを見て「万有引力」をひらめいた経験(この真偽はわからないが)が取り上げられる。

日常では、突然アイディアが浮かぶとか、急にストンと腑に落ちる、といったところだろう。

“突然”、”急に”、というと、偶発的に閃きが降りてくると思いがちですが、実はアハモメントを待つ前にその問題に真剣に取り組む事が重要だそう。

次に、その必死の準備が孵化する時間が、DMN(DMN: Default-Mode Network)といわれる脳がリラックスした”スタンバイ状態”。これは脳が情報分析・準備している状態とのこと。

それが実現しやすい環境として、お風呂・トイレ (Bathroom)・ベッド (Bed)・バス (Bus)・一人でゆったりお酒を傾けるバー (Bar)。「創造性の4B」とよばれる。たしかにボーッとできる場所だ。

まさにバスタブで閃きを得た・・・わけではなく、アハモメントのことを思い出しただけ。

最近、情報過多で脳への刺激が多すぎるのかもしれないと反省。

脳が休みなく働いているとDMNの稼働時間が少なくなって、注意・集中・記憶・判断・閃きなどの能力が低下するのだそうだ。

ということは、老化が進むということ。

いくらニュースを追ったところで、コロナもこの国の問題も私にはどうにもならないこと。ほどほどにして、脳をリラックスさせて閃きをえる準備を真剣にした方が良さそうだ。

幸福の12粒のぶどう

スペインの年越しの習慣だ。
日本では松が開ける1月7日。友人と遅ればせの新年の挨拶(ビデオチャット)をした。

挨拶もそこそこに「今年はPCのスクリーンのなかの家族とぶどうを食べたのよ〜。あんなかんじでも御利益あるかしら」この友人はスペイン人。クリスマスから新年は毎年欠かさず実家に帰っていたのに、去年はコロナに阻まれて帰国断念した。

そこで年末年始の大切な慣習をオンラインで家族と繋がりながら行ったというのだ。

その方法。

1)12粒のぶどうを用意。

2)マドリッドのプエルタ・デル・ソル(Puerta del Sol)の時計台の鐘が12回鳴らされるのがTVで放映される。

3)その間にぶどう12個を食べ切る!

そうすると、新年に幸福が舞い込むのだとか。

100年くらい前、ぶどうが豊作の年に「幸福のぶどう」と銘打って振る舞われたのが始まりとのこと。そして12個は12ヶ月を意味する。

想像するに除夜の鐘を聞きながらぶどうを食べるというイメージだろう。

簡単そうだが、友人曰く、なかなかむずかしいのだそうだ。

言われてみれば、鐘を打つ回数は108回ならぬ12回だけ。ぶどうに種があったら出したいだろうし、皮が嫌だど皮を取りながら。ということで、事前に皮をむいたり種をとったりする人や、全て準備ができた缶詰を使う人もいるらしい。

それでも幸せが舞い込むのか?

ともあれ、うまくいってもいかなくても、オンラインでも、みんな笑顔になったことは間違いない。

笑う門には福来る

海を挟んで一家そろって笑って迎えた新年、福が舞い込むこと間違いなし!!

身の三里四方

近隣の産物を売っているスーパーで栗を発見。懐かしのイタリア産だ。

イタリアでは今頃の時期から各地の広場の片隅に炭火の焼栗屋が登場する。日本同様南北に長いイタリア。ミラノとフィレンツェでも味は違うし、南下してシチリアまで移動すると、小粒になって特産の塩をまぶしてあるなど味付けも変わってくる。塩味のシチリア風もまた栗の甘さが際立って美味しい。どこで食べても、甘みやホクホク感が違っても、とにかく美味しいのだ。

パンデミックのさなか海外移動を望んでも無理な話。

現実に戻って、隣町のスーパーマーケット、”できる限り近隣の産物を扱う努力をしている”心意気と、コロナ禍に色々工夫しながら頑張っている様子にはいつも感心している。こちらは感染対策の武装をしながら恐る恐る出かけて行って運良く栗に出会えた。
でも、なぜ輸入?と思ってしまう。

そこで思い出した「身の三里四方の食によれば病知らず」

季節の新鮮な食物を食することが健康を維持する秘訣というのが、昔の人が言わんとしたことだと理解している。1里が約500mとして3里は1.5km。この距離ならば作物が人力で運ばれていた時代でも十分新鮮に届くだろう。

ここまでの近距離とは言わないが、イタリアから輸入しなくとも良さそうなものを…栗の木も多いであろう広大な国なのに、アメリカ産の栗に出会ったことがまだない。

栗好きとしては是非米国産の栗も食してみたい。
と期待しつつ、今夜はイタリアからの遥々来てくれた輸入品を、今年の初物として頂こう。

選挙ストレス

今日は2020年11月3日、日本は文化の日。

米国では4年に一度の11月第一火曜日、大統領選挙投票日だ。

選挙投票にあたって今回の有権者の判断材料は例年以上に多いはず。なにしろCOVID19など例年ではなかった。医療の問題で政府主導のアドバイスを信頼できるかどうかまで考えなければならないのだ。この国にずっとあり続けた人種問題はまったく好転していないどころか悪化の傾向。さらに投票システムの信頼性まで疑われている始末。諸々含めてもちろん次期大統領はどちらにするか。

大統領選の候補者はこうした問題に関して対極に立つ2人。支持政党の違いは家族のなかでさえもいつの時代にもあることだろう。ただ今回の報道を見ていると両陣営の対立ぶりが一般の人間関係にも影響しているようで、私個人の経験からしても日常の近所との気軽なおしゃべりも今まで以上に神経を使うものになっている。さらに、選挙運動における公人の言動や真偽の定かではない情報の拡散もあり、報道を見聞するだけで不快感を感じたり将来に対する不安を強める人も多いといわれている。

こうした中で耳にしたのが、「選挙ストレス障害(election stress disorder)」。

もともとは2016年の大統領選挙の際、メリーランド州のカップル・カウンセラーのスティーブン・ストスニー(Dr. Steven Stosny)により明らかにされたものだ。

アメリカ心理学会の統計よると、成人アメリカ人の68%(10月発表の世論調査)が選挙を重大なストレスと感じていると報道している。こうしたことを裏付けるようにメンタルヘルスのセラピストの需要が高まっているということは頻繁に報道されている。

前述のストスニー博士や有識者は、ニュースやソーシャルメディアからの情報の扱いに慎重になるよう呼びかけている。内容の真偽を確認したり冷静に理解するための時間をとることが、他者との会話を穏やかにするだろうとしている。

情報の理解に時間をとること、情報のソースを確認することは必要だろう。

それに加えて、自分と違う意見、自分が望まない結果もありうるということを認識する必要があると思う。いつも自分の思うように世の中を動かさなければならないという戦闘態勢でいることがストレッサーにもなり、人間関係の分断を起こすのではないだろうか。

投票数がかつてない数に上ったのは喜ばしいことだ。しかしそれはまた不安の現れかもしれない。こんな事も含めて今回は「歴史的大統領選」と呼ばれている。

すでに投票時間は締め切られて結果報道が始まっている。
いずれにしても、ストレスが軽減される結果となることを願うばかりだ。

<参考サイト>
Katherine Cusumano 2020「Don’t Give In to ‘Election Stress Disorder」『The NewYork Times』
https://www.nytimes.com/2020/10/31/at-home/election-stress.html

初雪の朝

落ち葉掻きのまもなく…

ぼんやりとした寝起きの頭で、暖房が自動作動する音をきいていた。

このあたりの真冬はマイナス10度は軽く超える。配管凍結防止のため暖房は24時間稼働だがが、温度は時間毎に設定している。そして今朝、今シーズン初めて暖房が自動作動でより強力に動き出した。つまりそういう寒さになったというわけだ。

シンと静まり返った朝。

この静けさ、しばらく忘れていたけれど、間違いなくあの気配。
すべての音を包み込む雪がふっている、しかも積もっているということ。

また長い冬がはじまることを思いながら、真っ白の積雪を期待してカーテンを開けたところ、終わりかけの紅葉が落ち葉となって新雪の一面をおおっている。なんとも美しい!裏口のドアを開けながら懐かしい冷気につつまれて、しばし秋冬の入り交じる朝に見惚れた。

雪が溶けたら今半ば凍ってるこの落ち葉も哀れな姿になるのかと、ハロウィーンの準備で落ち葉掻きを先延ばしにしたことを後悔した。

そしていきなり蘇った記憶。

「女の盛りなるは、十四五六歳廿三四とか、三十四五にし成りぬれば、紅葉の下葉(したば)に異ならず 」

こんな文章を見つけて他人事のように笑いあっていた学生時代…こんなにしみじみとした気持ちで雪に入り交じる落ち葉を見る自分など思いもよらなかった。

ひんやりとした廊下でひとり、自分の頬が高揚し緩むのを感じた。

『梁塵秘抄』巻第二、394
平安後期の今様とその周辺歌謡の集成。後白河法皇撰。明確な成立年時は未詳。

あお

7月、晴れた朝、アメリカ東海岸北部の空はこんな “あお”。まさに “空色”。

近所の公園。ベンチで一息つきながら空を見上げる。
あおいろ。 朝の控えめな太陽の光で爽やかな空色だ。

好きな色はあおいろ。どこにいても、どんなものも、一番に目に入るのはあおいろだ。いろいろなあおがあるが、藍や紺青などの赤みの少ない深いあおいろがより好みだ。でも好きだからといって身の回りがあおいろで埋め尽くされているわけではない。他の色の中にあってあおいろが引き立つのがいい。

夏の日差しのなか光る緑色は反対色の黄色、影となった葉は深く濃い緑色、枝は墨で引いた線、そして星条旗の赤。ゆるやかに形を変えていく薄雲のながれ。空色のグラデーションも、さながら川の流れのように形を変えてゆく。ベンチの背に頭をもたれて、いつまでも見入ってしまう。木々と星条旗は空色によって、空色は木々と星条旗によって、それぞれの色が鮮やかに際立つ。

こうしてあおいろを見ていると、ポジティブな感覚が勝ってくるのだ。

あたらしい同居

ウチはたびたび同居が増える家だが、今回は少しスケールが違う。

いつもの近所のジャンク屋さん。
大型品が置かれるスペースの真ん中、古い看板や用途が判然としない謎のもののなかに、なんだか見覚えのある色と形。どうみてもお寺のご本堂におられる方。

地面に直置きされている。
あっけにとられて呆然と見ている私に店の主人は「ねえねえ、なんて書いてるのー?」たびたび立ち寄るうちに、勝手に私を日本・中国ものの鑑定人と決めている。漢字が読めると誰でも鑑定人になれるようだ。
「ほら、ガラスボードのせるとおしゃれなコーヒーテーブルになるし、植木のカバーにもなるよね〜」「でも、ちょっと座りが悪いから底を平らにしないと!」
あきらかに何者かを知らないで店頭に並べている。

お労しいと思いながらもそのまま帰宅。
翌朝、うちのM「なんか、呼ばれてる気がする…」

そして一時間後、快適な移動を提供するために持参したビーチタオルにくるまれたお姿のまま、落ち葉が散り始めた芝の上に鎮座。

まずは長旅の身を清めていただき、我が家に同居と相成り候。