錦絵「谷風」

錦絵《谷風》。
左側の画像が江戸東京博物館収蔵の錦絵《谷風》。

勝川春英画「谷風」(1790寛政2年~1804文化1年) 38.5x25.0cm 資料番号: 94200373 
江戸東京博物館所蔵
勝川春英画「谷風」
50.5 x 32.0cm
E.Takino氏所蔵


錦絵の画面向かって右下、谷風の左足部分に欠損(別紙による補強)がある。
ガラス絵は画像が暗めで残念ながら画題や落款が見えにくい。

一見して錦絵とガラス絵は酷似している。

ガラス絵の墨線を辿ってみると、形はとれていても錦絵に見られる切れ味のいい線は見られない。どちらかというとたどたどしい線だ。タイトル「谷風」や落款、印影に関しては、ガラス絵はさらにもどかしい筆運び。絵具の濃度のせいで筆の動きが鈍くなった可能性もあるだろう。こういう点はほかのガラス絵をみて、どのような線質で描かれているか比較したいところだ。

もうひとつ、大きさが気になる。今回は2作品の画像を比較するために、見やすさを重視してなるべく同じくらいの大きさで並べている。
実際の錦絵は 38.5x25.0cm.
ガラス絵は額縁が塞がっているのが難点。フレームの内側で採寸すると50.5 x32.0cmだが、力士の身長なら頭頂から足の指先は46.5cm。幅は廻しの総から総で30.5cm。つまり背景を除いて、力士だけを切り取ったサイズは高さ46.5cm 、幅 30.5cmとなる。

この切り取ったサイズだと、ガラス絵は錦絵の約20%増しの作品になっている。現在ならばコピー機やコンピュータの印刷機能などで簡単に画像の拡大ができるが、それ以前の作品で、手作業ならばなかなか難儀な作業だっただろう。錦絵を元絵にした他のガラス絵作品の拡大サイズも比べて見てみたいものだ。

浮世絵の出版時期とガラス絵制作時期は必ずしも一致しないことは念頭に入れて置かなければならない。
制作時期の特定とどこで制作されたということに関しては、かなりの難題だろう。

見つかった錦絵は現在のところ江戸東京博物館所蔵のこの作品のみだが、このガラス絵の元絵はこの錦絵と考えて良さそうだ。

<参考サイト>
江戸東京博物館
https://bit.ly/3w986ul

ガラス絵

初のガラス絵。

ガラス絵は全くの無縁だ。ガラス絵には美人画が多いという知識ぐらいしかない。ところが今回はなんと相撲絵。これもまたこれまで縁がなかったジャンルだ。

実はこの作品、同じ州に住む友人が所有しているもの。私が浮世絵に興味を持っていることから「これ、本物かしら?」と相談を受けたのだ。

「谷風」E.Takino氏所蔵

私は鑑定はできないが、ガラス絵に触れる機会はかなり稀なことだし、よろこんで画像をいただいた。

早速オンライン上でガラス絵作品を探すも、とにかく情報が少ない。あってもオンラインオークション。

そこで、元絵があったと仮定して、限りなくこのガラス絵に似た錦絵を探すことにした。

磬子 Zoom in

磬子の彫物を拡大して見てみた。

BlueIndexStudio所蔵

美しい彫りで驚いた。彫刻刀は迷いもなく動いて、一気に彫られたことがわかる。

「屋」の3画目や5画目などの入筆部、「重」の4画目の折れに黒色部分が見える。これは下書き文字の墨の掘り残しだろう。

きちんとした書で、字間や文字の大きさもバランスよく取れているところから、筆耕者、またはそれに準ずる技術を持つ人が下書きをしたうえを彫ったと考える。

アメリカのアンティークサイトなどで見られる同サイズ程度の磬子には、このような整った彫りはほとんど見かけない。彫り師が下書きなしのフリーハンドで直彫したような、文字として美しいとは言えない仕上がりが多い。

このようにきちんと、丁寧に手順を踏んでいるにもかかわらず誤りに気づかなかったのは不思議だ。

完成して過ちに気づいたものの時間の余裕がなく修正されずに寄進されたと考えるのは、寄進という目的から推測すると、可能性が低いだろう。
新たな磬子を作り直して寄進しこの磬子は工房に残っていて、後年、明治の廃仏毀釈などで外に出る機会を得たのかもしれない。それで破壊されずに今日至っているならば、かなり運のいい磬子だ。

申と甲

今回も磬子の彫物について。

BlueIndexStudio所蔵

この胴体部分の外側上部の彫り込み。
問題は「安永三年申午」

恥ずかしながら全く気がつかず、この謎解きをシェアしていた学生時代のゼミ仲間Iさんが指摘してくれた。

問題は「申」。

画像で安永三年(1774)の次に「申(さる)」がある。その次は「午(うま)」。これでは十二支が2つ並んでいることになる。通常は元号年の次に十干と十二支が並ぶ。

安永三年の干支は甲午。

甲を申と誤って彫ったのだ。縦画の彫り違いはありそうなこと。さらにIさんは、刻印された時期が年号と干支を組み合わせて使用することがなくなった時代の可能性も指摘してくれた。つまり年号と干支のセット使用が一般的ではなくなった時代ならば、こうした彫り間違いやうっかりミスもあるのではないかという見解。

たとえば番付資料などを見ていると、明治の初期は元号年と干支(十干十二支)の記載が多いが、その後徐々に元号年と十二支のみとなり、明治中期には元号年だけの表記も出始めている。ただ、他の資料を見ていても、ある時点で一斉に様式が変わったというものでもなさそうで、かなり長期にわたって混在していたように見えるのだ。

甲を申と掘り間違えたことがこの磬子の流転のきっかけだったのかもしれない。


謎だらけの磬子どの

前回に続き、磬子の刻印についてです。

BlueIndexStudio所蔵

これは胴体部分ではなく、真上から見える縁に刻印されている。つまり胴体の厚みの部分に4文字の漢字が見えるのだ。

「作  金 竜☆」

最初の「作」は他の字よりも小さめ。そのあと一文字目は「金」、余白を置いて「竜」、次の最後の文字が「華」か「辛」のようにみえるが判然としない。並びとしては氏名のようだ。

中国・韓国出身の年配の友人たちにも見せたが、予想できる文字を試し書きしながらも首をかしげるばかり。「韓国の名前っぽい」というところで話が行き詰まってしまった。

とにかくこれが金竜☆という職人の落款と見てよいだろう。この金なにがしが大和屋重作の依頼で安永3年9月13日の寄進のためのこの磬子を制作したと仮定できそうだ。




 

磬子の彫物

今回は磬子の彫物を見ていこう。

ところで、この磬子素材。見た目の印象ではブロンズ。表面は漆がけのようで艶がある。

BlueIndexStudio所蔵

側面上部の刻字。右から「大和屋重作 安永三年申午九月十三日」

安永三年、1774年、江戸時代中期だ。

大和屋といえば商人の屋号として時代劇でも聞く機会が多い。
大店の主が菩提寺に寄贈したものかもしれない。

江戸時代の大和屋重作をオンライン検索したが、成果がなかった。
あまりによくある屋号で逆に難しいのかもしれない。

磬子


こちらの磬子。

BlueIndexStudio所蔵

近所のジャンク屋(親しみを込めてこう呼ぶ)Phillの店で写した画像。個人宅の仏壇のお鈴サイズではない。

実寸は、直径47.8cm, 深さ40cm, 胴回り160cm

磬子と書いて「けいす」とも「きんす」さらに「大徳寺りん」とも読むそうだ。
知らなかった。
そして新しいものはオンラインショップ楽天でも見かけた。自宅用に購入するというのは一般的ではないだろうから、やはりお寺さんをターゲットにしているのだろう。今時はこうしたものもオンラインショッピングするのだと、これまた初めて知った。


あたらしい同居

ウチはたびたび同居が増える家だが、今回は少しスケールが違う。

いつもの近所のジャンク屋さん。
大型品が置かれるスペースの真ん中、古い看板や用途が判然としない謎のもののなかに、なんだか見覚えのある色と形。どうみてもお寺のご本堂におられる方。

地面に直置きされている。
あっけにとられて呆然と見ている私に店の主人は「ねえねえ、なんて書いてるのー?」たびたび立ち寄るうちに、勝手に私を日本・中国ものの鑑定人と決めている。漢字が読めると誰でも鑑定人になれるようだ。
「ほら、ガラスボードのせるとおしゃれなコーヒーテーブルになるし、植木のカバーにもなるよね〜」「でも、ちょっと座りが悪いから底を平らにしないと!」
あきらかに何者かを知らないで店頭に並べている。

お労しいと思いながらもそのまま帰宅。
翌朝、うちのM「なんか、呼ばれてる気がする…」

そして一時間後、快適な移動を提供するために持参したビーチタオルにくるまれたお姿のまま、落ち葉が散り始めた芝の上に鎮座。

まずは長旅の身を清めていただき、我が家に同居と相成り候。