アルカラ・リ・フシ「フェスタ・デル・ムッツーニ」

シチリアの北部アルカラ・リ・フシ(Alcara Li Fusi)という村では、毎年6月24日「フェスタ・デル・ムッツーニ(Festa del Muzzuni:ムッツーニの祭り)」という催しがある。
イタリア最古の祭りで盆に置かれた洗礼者ヨハネの頸が村を練り歩くという。それを聞いては見に行かずにはいられない。

シチリア北部、小さな町々を横目にどんどん海抜が上がっていく。すると薄もやの中から険しい岩肌が見えてくる。道路は日光のいろは坂並の山道で、車酔いしそうになりながらひたすら上がっていくと、いきなり視界が開ける。まさに秘境。教会を見上げながら路上駐車列の最後尾にたどりつき車から降りると、すでに日が傾き始めた空は真近かにみえる。道路脇から見下ろすと驚くほどの高さまで登ってきていた。

本来この祭りは6月23日〜25日の3日間だが、クライマックスは24日のムッツーニの夜。
車の混み具合とは裏腹に通りの人影はまばら。すでに教会のミサが始まっていた。
教会に入る。祭壇の横にはお盆にのせられた洗礼者ヨハネの頭部がおかれていた。

ところで、ムッツーニとは首のない水差し 「mozzata(モッツァータ):切り落とされた」、または刈られて束に集められた小麦 「(mazzuna(マズーナ)」から派生した言葉らしい。また宗教的な観点からは 「decollato(デコラート):斬首された」聖ヨハネ と捉えられる。ギリシャ文明にまで遡る古代儀式の流れをくむ農民によって行われる異教の祭りだそうだ。 豊饒を讃える儀式は、自然や愛、若さへの賛歌と考えられている。

夏至と同時に行われるこの祝祭はもともと6月21日に行われた。 しかし、キリスト教の到来によって、斬首された殉教者聖ヨハネに捧げられた6月24日に変更された。 それ以来この儀式は異教とキリスト教の要素が混合され、何世紀にもわたって繰り返されてきたのだ。

6月24日夕方、教会では洗礼者ヨハネに捧げるミサが行われ、そのあとお盆にのせられた洗礼者ヨハネの頭部は緩急の厳しい山腹の村を司祭や信者、村人とともに練り歩くのだ。

行列が終わると村人は三々五々広場から離れていく。その間にパーティーの準備段階が始まりる。教会の前にある小さな噴水広場がこれから行われるパーティーの会場だ。シルクのスカーフで覆われたカットネックの水差しが置かれ、水差しの上部から暗闇の中で発芽した大麦や小麦の茎、ラベンダー、小麦の穂やカーネーションが見える。ムッツーニの祭壇も設置完了だ。

そして夜が深まり教会前の噴水広場が人々で埋め尽くされるころ、着飾った若い女性たちがあらわれる。彼女らは古代の異教の巫女の象徴。ムッツーニを外に持ち出し、すでに準備ができていた祭壇の上に置く。 ここからがパーティーのはじまりだ。歌手たちは農民の生活や愛や求婚の歌をうたい、若者たちはみな踊り出すのだ。

二つの行事は首がないとか刈り取られたという意味の共通点があるが、内容の理解には歴史をかなり掘り下げる必要がありそうだ。深夜のパーティは五穀豊穣へ感謝や願いと若い男女の出会いを重ねているようで、昔から行われた日本の農村で行われてきた盆踊りなどの村祭りに似ている。しかしその祭りと洗礼者ヨハネの斬首の日をわざわざ重ねている。残酷さと若者が生み出す歓喜。これもいわゆるメメント・モリ、生と死の隠喩なのか。

深夜、カーブが続く細い夜道は街灯もなく、車のライトに照らされる木々の間から時折りみえる野生動物の眼光に目を奪われながらひたすら下る。本線道路に出たときは思わずホッとした。神秘的な祭りと山深い村の雰囲気、長く続く帰路の闇もふくめて、しばし異次元を漂ったかのような経験だった。

チャコールチップ

観葉植物用の炭の話。

日常をともにする観葉植物は家族も同然。可能な限り長生きしてほしい。そして、丈夫で育てやすいといえばポトスとサンセベリア。切り落としたものを水栽培にしてもどんどん増える。

水栽培で一番の問題は水の濁り。一緒に入れている装飾用の小石もすぐに水垢まみれ、しかもヌルっとなって気持ちが悪い。

そこで思い出したのが備長炭だ。炊飯や浄水につかうものなら植物にもいいかもしれない。

近所の観葉植物ショップには取り扱いがなかったが、お店の人もチャコールチップはハイドロにも土植えの鉢にもとてもいい!と太鼓判。仕方なくアマゾンで怪しげな備長炭…はやめて、ガーデニング用のチャコールチップを購入。
小ぶりのサンセベリアをハイドロカルチャにしてみた。

ガラス容器の中はチャコールチップと水だけ。炭の黒も湿っていると溶岩石のようにもみえまる。白く見えるところは乾いたところ。このサンセベリアも、一緒に作ったポトスも全く問題なく環境に馴染んだ。

水の量はチャコールチップの高さの1/3~1/2程度。植物のグリーンと黒のコントラストもスッキリとして満足。

芳瀧の似たもの探し 縁取りの巻+ 

芳瀧の妹背山、似たもの探しの第一弾と思わぬ発見の話。

まず、無いわけではないけれどあまり多くは出会わない、錦絵作品の「縁取り」に注目してみた。縁取りは他の絵師の作品にも見かける。幾何学模様、特に一方に三角形の底辺を並べてギザギザ模様の縁取りは多いデザインだ。
こちらの芳瀧作品もそのひとつ。

芳瀧筆『仮名手本忠臣蔵大切』(1873) AcNo: arcUP2391
立命館大学アート・リサーチセンター所蔵

このギザギザは模様は「だんだら模様」といわれるものだ。赤穂浪士の羽織の袖口や裾に見られる。この羽織は歌舞伎の衣装でも使われていたために一般にも容易に知られることになったようだ。多分そのためだろうが、絵師に関わらずこのだんだら模様の縁取りが「仮名手本忠臣蔵」に登場することが多い。絵草紙屋に多くの錦絵が並んでいても、遠くからもひと目で忠臣蔵の錦絵とわかるだろう。

仮名手本忠臣蔵は歌舞伎外題としてはとにかく集客が期待できる人気演目。錦絵の方もまた連作が多く芝居に負けない人気だったようだ。

さて本題はこちら。

「妹背山婦女庭訓」部分

芳瀧作品で縁取りのある作品もやはり仮名手本忠臣蔵。1865(慶応元)年の連作と1873(明治6)年の連作だ。いずれもだんだら模様で縁取られている。1873年は芳瀧の改姓のぎりぎり前だろうか。

しかしこの「妹背山」は青い長方形が規則的な空間を開けて連なっている縁取り。オンライン上の芳瀧作品をあちらこちら見て回ったが、これと同じ縁取りの作品はみあたらない。

ただ、こうして縁取った作品を見ていると、縁取りは仮名手本忠臣蔵のような連作に使われていることが多いようにみえる。

妹背山婦女庭訓も歌舞伎演目としてはどの時代にも人気がある。また、作品の題名に「巻の六 大尾」とあり、巻の一から巻の五も存在する連作であろうと想像する。

そこで縁取り探索は一旦中止して、連作があったかどうか、手がかり探しをはじめた。
すると、思いのほか簡単に手がかりがつかめた。

酒井好古堂(日本最古の浮世絵専門店とのこと)のサイトに、日本浮世絵博物館による芳瀧作品の総目録が掲載されている。その中に日本橋南詰本安版の《妹背山婦女庭訓》が「巻ノ壱」から「巻ノ六 大尾」まで6作品記載が確認できる。作品年は残念ながら空欄だ。

妹背山婦女庭訓は連作で存在しているのは確かなようだ。

<参考サイト>
浮世絵・酒井好古堂 (4/08/2021閲覧)
http://www.ukiyo-e.co.jp/64680/2021/01/

ARC浮世絵ポータルデータベース “芳瀧”(4/05/2021閲覧)
https://bit.ly/3fVKWCf

MFA “Yoshitaki”(4/08/2021閲覧)
https://collections.mfa.org/search/objects/*/yoshitaki

Japanese Woodblock Print Search “Yoshitaki”(4/04/2021閲覧)
https://ukiyo-e.org/search?q=Yoshitaki



妹背山…手強し

《妹背山婦女庭訓》の番付調査の中間(?)報告。

前回話したとおり、芳瀧の《妹背山婦女庭訓》に登場する役者が揃った興行を見つけるべく、1870(明治3)年から(念のため)芳瀧没年の1899(明治32)年までの江戸を除く役者番付をチェックしてみた。
今回も資料は立命館大学の「ARC番付ポータルデータベース」。

29年間に26の《妹背山婦女庭訓》の興行が確認された。辻番付11件と役者番付15件を資料としたところ、役者番付に7件の浄瑠璃興行が含まれていた。このため、それらを削除。19件が歌舞伎興行とわかった。
ちなみに興行地の内訳は大坂が一番多く8回、京都4回、名古屋3回、横浜2回、神戸と静岡が1回 ずつ。

これらの番付の配役と、芳瀧作品の配役を一興行ごとに確認。

その結果として、芳瀧作品の配役による興行はない!

この結果から考えられること。

1)芳瀧作品の配役による興行の役者番付は存在するがデータベースとして世に出ていない。
2)芳瀧作品の配役による興行の役者番付は消滅してしまった。
3)役者番付を作らずに行われた特殊な興行(?)に発想を得て芳瀧が錦絵を作った。
4)この配役の興行自体が存在せず、芳瀧が「スーパースター夢の共演」といった架空の配役による作品を作った。
5)芳瀧が一時的に江戸で仕事をした。

①DBとして公開されるのを気長に待つ。
②他の方法で興行記録が見られるかもしれない。
③②の方法のほか、『藤岡屋日記』『斎藤月岑日記』は時期的に無理でもこれに類似した上方版の忘備録的な日記に記載がある可能性は??
④この可能性は大いにありそう。
⑤現状ではその形跡を示すものは見当たらない。しかも芳瀧の配役には大坂地盤の匂いが強い。

万事休す。


神霊矢口渡

おふねちゃんの登場。

前回まででわかったこと。

1)画題:頓兵衛娘於ふね(とんべえむすめおふね)
2)版元:元飯田町中坂 人形屋多吉(にんぎょうや たきち)
3)落款:一勇齋国芳
4)押印:芳桐印
5)改印:村田・米良

そしてここからが新情報だ。
芝居絵は歌舞伎興行に合わせて制作されることが多いため、この作品の制作・出版時期と上演時期は重なると考える。そこで、いろいろな角度から時期を追ってみた。

まず⑤の改印「村田・米良」。『錦絵の改印の考証』によれば、この2つの改印は1847(弘化4)年から1852(嘉永5)年に使用。この作品の出版時期はこの改印の使用時期に絞ることができる。

次に②の「版元・人形屋多吉」。人形屋多吉は国芳や弟子の作品を扱っていた。地本問屋営業時期を調べたところ、弘化〜嘉永とあるので、村田・米良による改印の時期と合致する。

③この作品の絵師一勇齋国芳は歌川国芳のこと。国貞と人気を二分した、あの国芳。1797(寛政9)年生まれ。国芳の作画時期だけ触れると、1812(文化9)年から万延と言われている。万延期はとても短くて1860年3月から翌年。西暦だと1812年から1861年を作画時期と考える。もちろん改印による仮説は問題ない。

④「芳桐印」は国芳作品で頻繁に見かける押印。初期は歌川一派の「年玉印」を使っていた。国芳が年玉印から芳桐印に変えた時期が、国貞が三代豊国を襲名した1844(弘化元)年ころという話もある。これについてはまだ納得がいく裏付がない(どこかで読んだ記憶だけ)。仮に1844(12月から弘化元)年を、国芳作品に芳桐印が押印され始めた時期と見ると、これもまた、ここまでの流れに符合するものではある。

そして①《頓兵衛娘於ふね》。この役が登場するのは『神霊矢口渡』(しんれいやぐちのわたし)という作品。もともと、浄瑠璃としてつくられて初演は1770(明和7)年江戸・外記座(げきざ)。1794(寛政6)年から歌舞伎の出し物となった。作者は福内鬼外(ふくうちきがい)。実はこの人、日本のダ・ヴィンチ、オールマイティの平賀源内。

さて、ここまでで確証を得たこと。
歌舞伎の外題:神霊矢口渡
仮説とする時期:1847(弘化4)年〜1852(嘉永5)年

この2つを手がかりに、つぎは芝居番付へ。

参考文献
石井研堂 1932『錦絵の改印の考証』菊寿堂伊勢辰商店
小林忠・大久保純一 2000『浮世絵の鑑賞基礎知識』至文堂

参考サイト
「神霊矢口渡」文化デジタルライブラリー(2021/02/14)
https://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/modules/kabuki_dic/entry.php?entryid=1169
「人形屋多吉」Wikipedia (2021/02/14, 参考文献が信頼できると判断したため参考にした)
https://ja.wikipedia.org/wiki/人形屋多吉

頓兵衛娘於ふね

国芳の《頓兵衛娘於ふね》の基本情報。

BlueIndexStudio所蔵

画題:頓兵衛娘於ふね(とんべえむすめおふね)

版元:元飯田町中坂 人形屋多吉

落款・押印:一勇齋国芳(芳桐印)

改印:村田・米良

もう一つ、この作品には裏張りあり。

笹木芳瀧

浮世絵師、笹木芳瀧(ささき よしたき)について。
錦絵《妹背山婦女庭訓》の絵師だ。

笹木芳瀧は、1841(天保12)生まれ。
姓は中井、名は恒次郎。一時期笹木姓を名乗ったそうで、この《妹背山婦女庭訓》はその時期の作品と推測している。

号は、一養斎・一養亭・養水・里の家・豊玉・寿栄堂・阪田舎居・糊屋。

歌川国芳門下の歌川芳梅に入門、大阪や和泉・堺で浮世絵師として活躍した。
活動期は安政(1854年11月−1860年2月)〜 明治中期。明治中期、明治20年代前後だろうか。役者絵、美人画を得意としたようだ。1899(明治32)年没、59歳だった。

ボストン美術館(MFA)アーカイブサイトで「Yoshitaki」で検索すると、現段階で芳瀧作品317点がヒットする。そのうち246点が役者絵だ。ちなみに、そのつぎにMFAで多いのは美人画ではなく名所絵だった。

<参考文献>
小林忠/大久保純一 2000「浮世絵の鑑賞基礎知識」至文堂
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」『歌川芳梅』 講談社 
<参考サイト>
コトバンク「里の家芳滝」(2021/1/10閲覧)
https://bit.ly/3tE3nz2
Museum of Fine Arts Boston Collections Search 「Yoshitaki」(2021/1/10閲覧)
https://collections.mfa.org/search/objects/*/yoshitaki

いつもより新しめ

隣町のジャンクショップをふらふらしていた時に目を引いたかなり古めのカップボード。普段見かけないその大きさに思わず周囲をぐるりと回ってみたところ、押し付けられた壁とボードの隙間に一枚の薄い額がある。引っ張り出してみると錦絵だった。 

BlueIndexStudio所蔵

これ以外にアジア系のものなど全く見当たらないこの店。どんな経緯で流れ着いたのだろう。幕末から明治初期の赤と青の氾濫、折ったあとはあるけれどカビがないのはうれしい。

小万とは

作品上の情報から《桜屋の小万》を探る。

画面背景が階段とは舞台装置。そして何かを差し出すこのポーズもいかにも芝居がかっている。これは芝居絵・役者絵。

それでは画面情報から見てみよう。
作品名:桜屋の小万(さくらやのこまん)
版元:版元(亀甲の中にト+遠彦)遠州屋彦兵衛
落款:豊国画(年玉)
絵師:豊国三代/国貞
改印:申五改;1860(安政7/万延元)年 

BlueIndexStudio所蔵

改印の年代から豊国は3代目、初代国貞だ。

さて小万。
まず衣装から見てみると、袖や肩に千鳥の柄。裾には釻菊(かんぎく)の紋様も見える。この手がかりから浮上したのは歌舞伎俳優・澤村田之助。

釻菊は定紋で替紋が波に千鳥。よく見ると着物だけでなく硯箱にも千鳥が描かれている。澤村田之助は現在まで続く名跡だ。改印の時期から推測するに1858(安政5)年に襲名した三代目のもよう。

この役者が「桜屋の小万」として登場する公演を捜索。
すると『五大力色〆(ごだいりきいろのふうじめ)』という作品がヒット。この役者絵の出版年(1860)と同じ1860年の芝居番付が続々と出てきた。

興行地:江戸・守田座
上演日: 1860(万延元)年5月5日 (同年3月18日から万延元年)

これによって1860年5月5日興行の歌舞伎『五大力色〆』に合わせて出版された錦絵があることが裏付けられた。資料となった番付から、この興行で桜屋の小万を演じたのは三代目澤村田之助ということも裏付けがとれた。
今回は作品の詳細を理解するための資料が揃っていてかなり楽なケース。

ところがこの作品と同じ錦絵は(少なくともオンライン上では)未だ見つかっていない。

<参考文献>
浅野秀剛 2012「浮世絵は語る」講談社
石井研堂 1920「錦絵の改印の考証:一名・錦絵の発行年代推定法」伊勢辰商店
早稲田大学文化資源データベース「五大力色〆」
https://bit.ly/2Pf9cUm



桜屋の小万

豊国画『桜屋の小万』BlueIndexStudio所蔵

隣町のはじめて行った骨董屋で見つけた比較的状態のよい錦絵。これまた縁もゆかりもないような額に囲まれて、作品入りながら額の売り場に置かれていた。実際私も古い額を探しながらそこにたどり着いたわけだから不思議な縁だ。

その場で作品だけを取り出してみることはできなかったが、目立った欠損やカビもなく状態良好。額装はマットや木製額の様式からも現代の画廊などによるプロの額装だった。現在の額装の前も額装されていたなど、丁寧に保管されながら日本を離れたのではないかと想像している。

額を売る目的の値段設定で、作品の価値は加えられてないのが逆に寂しい気がしたが、どの道大事にする手に渡ったこの作品は強運を持っている。