クールベのタチアオイ

ボストン美術館の中央玄関から入ってまっすぐ進むと両面ガラス張りの総合案内がある。入館者が情報を得たり、待ち合わせやソファで一休みするといった場所だ。人の動きやガラスの反射で気づきにくいのだが、そこの壁面にも絵画が展示されているのだ。

その中の一作に、グスタフ・クールベ (Gustave Courbet, 1817- 1877)の《銅鉢のタチアオイ》がある。

Gustave Courbet Hollyhocks in a Copper Bowl, 1872
MFA: 48.530

不透明な色使いと大きな筆触が花びらに重量を与えて造花のようにみえる。それに何の花か。

タイトルによれば描かれているのはタチアオイ。ひとの身長ほどに高くまっすぐ伸びた茎のまわりにハイビスカスに似た色鮮やかな花をたくさんつける植物だ。夏の田園風景によく見かけるが、個人的には花の美しさよりも、その毛羽だった強そうな茎の直立した様子が印象にのこっている。

ここではそのタチアオイ特有の立ち姿は描かれていない。短く切って活けた花は、それぞれにどこか寂しげだ。

MFAによれば、この作品はクールベが投獄されていた時期に花から描き始め、その後銅製の花器を描き加えたようだ。

1871年パリ・コミューンに参加しヴァンドーム広場のコラム(記念柱)を引き倒す動きを先導したことでクールベが収監された。その間、妹に画材や花、書籍などを差し入れてもらい獄中で描いていたという。

ロマン主義やアカデミズムとは相容れず、写実主義もって我が道を貫いたクールベ。実家の経済力も手伝ってか当時主流だった公募展に反して個展を開いたり、有力者からの依頼を断るなど、その大胆な言動はよく知られていたようだ。パリ・コミューンのコラム事件では、収監のうえにコラム損壊の賠償ももとめられ、釈放後スイスに亡命して1877年に亡くなった。

嘗てパリ一番の横柄な男、暴れん坊と浮名を流した怖いものなしのクールベだったが、その影は見えない作品だ。収監に至ってはそれまでのような自由奔放は許されず、生まれて初めて生きる厳しさを感じていたのかもしれない。

花は開いて朽ちてはいない。が、生死がわからないまま闇の中に吸い込まれていくようだ。

1872年といえばクロード・モネの《印象・日の出》が発表され、「印象派・印象主義」誕生の年でもある。写実主義の先導者としてレアリズムを追求しながら力強い筆触分割をみせて印象主義の誕生にも影響を与えたことはこの作品からも見て取れる。

パリから遠く離れた失意のクールベは、この印象派の幕開けを知っていたのだろうか。

参考サイト
Gustave Courbet 《Hollyhocks in a Copper Bowl》(1872)
https://collections.mfa.org/objects/33259/hollyhocks-in-a-copper-bowl?ctx=f4c904ee-ba09-4769-88c7-38755b55db80&idx=0

北斎のマイナーな弟子

今回北斎展を見ていて、普段以上に雅号が気になった。
北斎自身は30以上の雅号を持っていたと聞いている。使い捨て感覚の家の引っ越し93回の数値には遙かに及ばないが、ここまでの数になると見る側としては注意がいる。

北斎の雅号は初期に学んだ勝川春章時代の春朗や、琳派の俵屋宗理から襲名した二代宗理(後に宗家に返す)は別にして、北斎となって以降「戴斗」「為一」「雷斗」「卍」ほか多数を使い分け、気が向くと弟子に与えたりしたようだ。例えば北斎長女、如風の元夫柳川重信も北斎から「雷斗」引き継いだ。号を複数持つことはめずらしいことではないが、北斎周辺の混乱はなかなか手強そうだ。

例えば、卍斎一昇と北仙、卍斎が同一人物かもしれないという話。おなじみの浮世絵第一人者、キュレーターのトンプソン氏はこの人物について「北斎門徒としてはかなりマイナーな絵師であったが多くのドローイングを所持していた可能性がある」ということで注目していた。これにはMFAならではの理由がある。つまりMFA日本美術初代キュレーターのアーネスト・フェノロサ(1890−96在任)の次の話による。

膨大なコレクションをMFAに寄贈したウィリアム・スタージス・ビゲローは1885年、若いときに北斎の工房で学んだという老人の工房でドローイングを購入したとのこと。北斎の没年は1849年なので、ビゲローはその後40年にも満たないうちにこの老人に会っていることになる。そしてその時購入した一作《幟の下絵?韓信胯潜之図》の左上角にビゲローよって「北斎の生存する最後の弟子から購入ー東京-1885-6 北斎 WSB」(実際は英語)とかすかな鉛筆書きが添えてあるのだ。もしかしたらこの老人がドローイングをたくさん所蔵していたマイナー絵師だったのかもしれない。

作者不詳(伝葛飾北斎)幟の下絵?韓信胯潜之図
MFA William Sturgis Bigelow Collection, 1911. 11.46038

《幟の下絵?韓信胯潜之図》は紙を貼り次いで描かれたもので、大きな幟のようなもの下絵にみえる。ビゲローは北斎真筆と信じて購入したようだが、現在の調査では明らかになっておらず弟子などの可能性が高いとのことだ。

ビゲロー来日のころ、著名浮世絵師門徒の工房がまだ存在していた。こういう話を聞くと作品の息吹がよりリアルに感じられる。

幕末からの廃仏毀釈や明治の急激な近代・欧米化で国民にとっては自国の文化がなおざりなっていた時期だったのだろう。全く異なる文化を生きてきたビゲロー(もちろんエドワード・モースやフェノロサも)が日本の美術品に価値を見いだして救いだしてくれた。(おかげで関東大震災も免れた!)

MFAに所蔵されている日本の美術品は、つくづく幸せ者だと思う。

<参考>
Sarah E. Thompson, Curator for Japanese Prints, Art of Asia
「Hokusai and His Students」 (Lecture: 5/20/2023, MFA)

作者不詳(伝葛飾北斎),幟の下絵?韓信胯潜之図
MFA William Sturgis Bigelow Collection, 1911.  11.46038


北斎とピカソ

MFAの北斎展期間中にはテーマ別の講演も行われたが、そのとき北斎の妖怪画や作品の理解に役立つような日本の風習や考え方などをテーマにした回があった。そのなかでは北斎の艶本《喜能会之故真通》の《海女と蛸》に影響を受けた画家としてパブロ・ピカソ(1881−1973)が登場したのだ。

19世紀後半のジャポニスムといえばパリの印象派やアール・ヌーボーの工芸作品に気を取られ、当時活動期初期のピカソの作風を浮かべると、ジャポニスムの影響はなおさらイメージしにくい。しかし春画となると話が違う。ピカソの女性関係、そうした経験を投影するようなミノタウロスの存在だ。ギリシャ神話、クレタ島ミノス王がポセイドンに捧げるはずだった美しい牡牛に魅せられてほかの牡牛とすり替えたことに怒ったポセイドンが、美しい牡牛を凶暴にし王妃パーシファエ(キルケの妹でアリアドネの母)には牡牛への恋心を抱かせた。そうして生まれたのが牛頭人身のミノタウロスだ。ピカソはこの怪物を性欲、野生、凶暴性、そして絶望や罪悪感などの擬人化とし、自分自身を象徴する存在としてもたびたび描いている。ミノタウロスはピカソの作風が変わりながらもたびたび現れていることを思い出すにつれ、ピカソと春画、ひいてはジャポニスムとの関連性が確かに浮かんでくるのだ。

そんなわけでオンライン上で「海女と蛸、ピカソ」で検索すると、関連を裏付ける情報が簡単に得られて驚いた。手っ取り早いところではWikipedia英語版《The Dream of the Fisherman’s Wife》に、《Dona i Pop》 (カタルーニャ語, 英訳”Woman and Octopus”) (1903), private drawingという女と烏賊のような蛸が描かれた作品が掲載されている。もう一作、バルセロナのピカソ美術館には紙に色鉛筆などで描かれた《Le Maquereau(鯖)》(1903)が所蔵されている。これは先の《Dona i Pop》によく似た作品だ。 両方ともあきらかに北斎の《海女と蛸》を髣髴とさせる作品だ。

さらに、この美術館のサイトによれば、2009年11月から2010年2月にかけて「Secret Images. Picasso and Japanese Erotic Prints」と題する展覧会が同館で開催されていたことがわかった。浮世絵版画とピカソ作品との関連を明らかにする展示で、全体像はこのサイト上で現在も閲覧できる。会場風景として撮影しているため詳細は見えにくいが、作品にとしては、ピカソ作品はほぼ銅版画やドローイング、浮世絵の方は春画のほかに美人画や絵本の類、名所絵とその制作過程などのほか、版木や絵の具など、木版画の道具も展示されていてる。とにかく春画はかなり引いて撮影していて判別がつきにくいものが多いが、会場内で使われていたと思われる説明内容や、ゆったりと着物を羽織って寛ぐピカソの写真からも、彼のジャポニスムや浮世絵版画への傾倒ぶりは明らかだ。何しろ展示している浮世絵がピカソのプライベートコレクションだというのだから、これ以上の証拠はないだろう。

バルセロナは1895年、ピカソが10代半ばで移り住んで以来パリに移住後も含めてたびたび往き来していた土地だ。ピカソ美術館はスペインとフランスに5館も存在するが、そういう縁もあってバルセロナはピカソの存命中に早々に開館されたのかもしれない。

存命中と言えば、ピカソや北斎に関しての著書が多い美術評論家の瀬木慎一は生前、ピカソと個人的に親しく交流があったことで知られている。ピカソが北斎に共感し、北斎が自らを「画狂老人」と呼んだことを自分にも重ねていたとのはなしもどこかで見かけた。ピカソの日本文化への興味、当時のジャポニスムへの傾倒ぶりなど、瀬木慎一の書籍には詳しく書かれているのだろうが、ebookになっていない著書がほとんどで、現状では確認できないのが残念だ

<参考サイト>
Museu Picasso, Barcelona Exhibition「Secret Images. Picasso and Japanese Erotic Prints
05/11/2009 – 14/2/2010」
https://museupicassobcn.cat/en/whats-on/exhibition/secret-images-picasso-and-japanese-erotic-prints#archivo

Pablo Picasso《Le Maquereau》(1903)
Museu Picasso, Barcelona Inventory number: MPB 50.497
https://museupicassobcn.cat/index.php/en/collection/artwork/le-maquereau

Wikipedia英語版「The Dream of the Fisherman’s Wife」(海女と蛸)https://en.wikipedia.org/wiki/The_Dream_of_the_Fisherman%27s_Wife

如風 

現在ボストン美術館では北斎と北斎から影響を受けた作品を紹介する特別展が行われている。
影響を受けたといえば印象派やアール・ヌーボーを考えがちだか、今回は北斎と北斎門下生や影響を受けた同時代の絵師の作品が多く取り上げられていた。

その中に、如風(じょふう)と署名された作品があった。

肉筆画《柳下三美人図》三連作。透明感のある彩色が柔らかな雰囲気を醸し出している。一見して一人の絵師の連作のように見えた。しかし署名はそれぞれ異なっていた。

柳下三美人図 (1820s) MFA Fenollosa-Weld Collection, 1911    
 11.4644.1, 11.444.2, 11.4644.3

如風(右)
《柳下三美人図 親子》

応斎(中央)
《柳下三美人図 遊女と禿》

気斎(左)
《柳下三美人図 船宿の仲居》

3作の署名が異なるにもかかわらず画風が酷似している。

北斎長女如風子画帖 (1820s)
MFA William Sturgis Bigelow Collection, 1911   11.934
6

そして次の画像、前の肉筆画3作の習作らしき頁が開かれていた。そして何よりもこの画帳には手書きのタイトルがつけられているというのだ。それが《北斎長女如風子画帳》。つまり、北斎の長女である如風のスケッチを集めたて台紙に貼り付けたアルバムなのだ。

冊子状のため《柳下三美人図》との関連の頁を開いたため、タイトルは自ずとかくれてしまったのだ。タイトルを見られなかったのが残念。筆文字を理解できる鑑賞者が少数派と考えて、酷似性がわかりやすい作品頁を選んだのだろう。できれば画像でもかまわないから、タイトル部分が見たかった。

さてこのアルバムに添えられたキャプションによれば、この画帳のタイトル《北斎長女如風子画帳》が、如風を北斎の長女と考える根拠となったようだ。北斎には2人の妻に息子が2人、娘が3人いた。如風に先んじて有名なのは肉筆画《三曲合奏図》で知られる応為だ。日本では最近、アニメやTVフィルムなどにも取り上げられている。お栄ともよばれ三女であったから、未だ知られていない次女も絵師であった可能性もここで指摘している。当時女性の絵師はまれであったが存在は知られていて、それらの女性絵師たちの多くは有名絵師の娘やその妻だったという。絵画という特殊技術を習得するにもってこいの環境なのだからそれは容易に想像できる。

如風はお美与ともよばれ、北斎門下の柳川重信(1787−1832)の妻で男子をもうけた後に離縁している。父も夫も絵師であり、さらに江戸の庶民の住宅事情から想像するに彼女も妹の応為同様にそうした創作環境にドップリと浸かった暮らしをしていたのだろう。

さて先の作品に戻る。《柳下三美人図》には如風のほかに応斎、気斎。《北斎長女如風子画帳》も如風のほかに気斎と南斎という署名がある。応斎、気斎、南斎という画家は現在までに特定されていないとのこと。すべてが別々の絵師である可能性はもちろんあるが、このうちの1人、あるいは複数が家族かもしれないし、すべて如風の別名という可能性はキュレーターのトンプソン氏も指摘していた。

そうなるとやはり署名に目が行く。まず気になるのは、《北斎長女如風子画帖》の左の猪らしき動物を描いた作品の署名が、改めて画像で見ると「南」斎というより「応」斎にみえるきがするが。《柳下三美人図》の応斎と気斎の「斎」も筆圧の特徴がとてもよく似ている。どれも似た筆跡だという印象は拭えない。

現在のところ、ここで取り上げた如風(応斎、気斎、南斎)の作品はまだMFAのオンラインコレクションでは見られないようだ。展覧会で興味を持った人も多いだろう。画像下のアクセスナンバーで閲覧できる日も近いだろう。

それにしても、こうした新たな発見とそれを裏付ける絵画資料がMFA内調査でここまで完結するのだ。所蔵作品の潤沢な内容と膨大さをあらためて見せつけられた気がする。

如風の存在を知り、その作品に直に(ケース越しではあったが)触れることができたのは大収穫だった。

参考
Special Exhibition 「Hokusai: Inspiration and Influence」 (March-July, 2023 MFA)

Sarah E. Thompson, Curator for Japanese Prints, Art of Asia
「Hokusai and His Students」 (Lecture: 5/20/2023, MFA)

葛飾応為『三曲合奏図』William Sturgis Bigelow Collection 1911 11.7689
https://collections.mfa.org/objects/26487/three-women-playing-musical-instruments?ctx=176bf12f-7d29-4f4d-b23b-30deccf5fe43&idx=0

サイ・トゥオンブリ

サイ・トゥオンブリ (Cy Twombly) はアメリカ出身の現代アート作家。

1928年ヴァージニア州に生まれ。ボストン美術館付属美術学校、ノースカロライナ州のブラック・マウンテン・カレッジなどに学びながら1951年にニューヨークで初の個展開く。その後南ヨーロッパや北アフリカを旅し、1957年、イタリアを定住の地とする。そして2011年83歳に生涯を終えるまで、50年以上をローマで過ごした。

現在、ボストン美術館でサイ・トゥオンブリの企画展が行われている。
そこで私が最も長い時間を過ごしたのは《Il Parnaso》。この作品は、ヴァティカン美術館「署名の間」のラファエロ・サンティによる一連のフレスコ画のなかの一作で、同名の作品《Il Parnaso (パルナッソス山)》からインスピレーションを得たとされている。

トゥオンブリは、このラファエロ作品の構成をたどっているので、先にラファエロ作品を見てみよう。

Parnaso (1510-1511) Musei Vaticani

ラファエロは、リラ・ダ・ブラッチョを奏でる芸術の守護神アポロを中心に、ミューズたちや「Carpe diem」で知られるホラティウス、『オデュッセイア』のホメロス、『神曲』のダンテなどラファエロの時代(ルネッサンス)までの著名な詩人たちが集う様子を描いている。

一方、下のトゥオンブリ作品もパルナッソス山に集う神々や文学者などが描かれ、ラファエロ作の登場人物は「Apollo」や「SAPPHO」のように名前やイニシャルなどでしるされているため、それを辿ることで両作品の構成の類似がわかる。また、ラファエロ作品が描かれたルネットの下がドアのために半円にはなっておらず、トゥオンブリ作品の中にもドアを枠取りした部分が作品中央下にラフな線で区別されている。そしてそのなかに彼は、3行に改行しながら「Il Parnaso/Cy Twonbly/1964」とタイトルと署名をしている。

Il Parnaso (1964) Cy Twombly Foundation

この作品を前にした最初のインパクトは、トゥオンブリが作品のなかにいる印象。《Il Parnaso》を描くトゥオンブリは、ヴァティカンのラファエロ作品のパルナッソスの芸術界に身を投じ、一方でキャンバスに向かって、パルナッソスの芸術界にいる自らも含めて描いたように見える。

サイ・トゥオンブリの作品の多くは抽象ながら一見して美しいと感じる。彼のインスピレーションの基本になるものは、学生時代から興味をもっていた古代ギリシャ・ローマの遺産(遺跡・遺品)。MFA付属美術学校時代もMFAに展示された古代の彫像や遺跡の破片をみるために足繁く通っていたことが今回の展覧会の中でも語られている。

そして遺跡や遺品を巡る旅のなかでローマに拠点を得たことによって、彼は自らのインスピレーションの源にドップリと浸かった創作人生をおくることになる。なんと幸せなことか! 古代ギリシャ・ローマ文化、文字ーグラフィティへの関心と、顕著な繰り返しへのこだわりや独自の(わずかな)色の法則などは、見る側にとっては彼のメッセージに触れる大きなヒントとなる。

トゥオンブリが「自らの言語」で語る時、何のためらいもみえない。グラフィティのように、あるいは色や動きで画面上に表現されるものはすべてが彼の一部となって、非常に早いスピードで迷いなくアウトプットされる。作品は既に彼の中で完成されているのだ。そうした彼の創造の跡を辿るうち、彼が作品の一部としてそこに存在しているように感じる。

そして、その勢いと空(無)とのバランスが、明瞭さと美しさを感じさせるのだ。

参考サイト
Cy Twombly, Il Parnaso, 1964
https://www.mfa.org/exhibition/making-past-present-cy-twombly

Raffaello Sanzio, Il Parnaso
https://www.museivaticani.va/content/museivaticani/it/collezioni/musei/stanze-di-raffaello/stanza-della-segnatura/parnaso.html

アルテミジア・ジェンティレスキ

17世紀のイタリア人画家アルデミジア・ジェンティレスキ(Artemisia Gentileschi)の作品がボストン美術館(MFA)のロトンダに現れた。

The Sleeping Christ Child(1630-32)Artemisia Gentileschi
MFA accession numb
er:2022.102

《眠る幼子キリスト》。12.4 × 17.5 cm の銅板に油彩で描かれている。絵はがきサイズだ。クッションに頭を預けて無防備にあどけなく深い眠りの中にいる幼子イエス。なんともいえない愛おしい姿である。この稀に見る珠玉の小品を初めて見かけたときには、うれしさのあまり自分のほおが緩むのを抑えきれなかった。

以前この作品がオークションに出るという記事を見たことがあった。そのときはこの作品を元に制作された別の作家によるエングレービング作品《死の寓意》が添えてあった。版画の方は幼子のそばに頭蓋骨が置かれ、天使のように美しく幼い子どもにも何れ死は訪れるという、いわゆるメメント・モリをテーマにした作品だ。

Allegory on Death (制作年不明)  Jode II, P. de (1601-1674).
Engraving after Artemisia Gentileschi

版画は量産可能であるから人の目に触れる機会も多い。それでこちらが先に有名になったらしい。元となったジェンティレスキ作の幼子キリストは頭蓋骨を伴っておらず、眠る幼子の姿は生き生きとして、小さな胸の動きや静かな呼吸が聞こえてきそうだ。

まだ女性画家が少なかった時代、画家オラツィオ・ジェンティレスキ(Orazio Gentileschi)の娘として生まれたアルテミジアは絵の天分とそれを家庭内で磨く幸運を得た。父親がカラヴァッジョと親しかったため、その技法を間近で学んだという点で、後に連なるカラヴァッジョに私淑したカラヴァッジョ派とは異なる。彼女の作品の明暗対比の強いテネブリズムやドラマティックで躍動感あふれるな画面構成などにその特徴は明確に現れている。

当時の創作現場はほぼ完全に男社会であり、とりわけカラヴァッジョの素行の悪さは有名だが、当時はそういうタイプの画家は少なくなかったようで、カラヴァッジョと親しかった父親周辺も悪評高い人間が取り巻いていたらしい。そんな中で娘である17歳のアルテミジア自身もセクハラの被害者となりレイプ裁判を起こしたことから、本業以外でも後世まで名が知れることになる。それでも彼女は描き続け画家としてのキャリアを高めていく。創作作業というのは何につけ重労働が多い。ロンドンでは父オラツィオの制作を引き継ぐ形とはいえ直径5メートル近くの天井画(キャンバスに油彩したのち板張り)などにも取り組んでいる。

アルテミジアの自画像を見ていると彼女は確かに現実社会に存在し、自己主張し、閉鎖的で理不尽な社会の壁を打ち破るべく戦った女性だと感じる。例えば、時代はかなり進むが18世紀にフランスに現れる女性画家ヴィジェ=ルブラン。マリー・アントワネットのお気に入りとなり爛熟のロココを強かに生きたようだが、嫋やかでファッショナブルな浮世離れした自画像をみると時代と文化環境の違いは大きいが、ここまで時代が経過しても女性画家は僅かだったのだ。

アルテミジアの作品は、テーマや画面構成、表現の細部に至るまで彼女の意思と肉体の強靱さが作品に憑依しているようで、見る者に強く訴えてくるもののがある。そんな彼女の繊細さと愛情深い眼差しが作り上げた小さな宝石のようなこの一作。
アルテミジア・ジェンティレスキは心身共に強く、そして美しい画家だったに違いない。

参考サイト
Artemisia Gentileschi 1630-32《The Sleeping Christ Child》ボストン美術館
https://collections.mfa.org/objects/699323/the-sleeping-christ-child?ctx=0b6bdc9a-fe6d-4495-b1ce-7fc547bdb0ab&idx=0
Letizia Treves 2016 「Caravaggio: His life and style in three paintings」National Gallery of London https://www.youtube.com/watch?v=1KcdgFxmnb4
Orazio Gentileschi&Artemisia Gentileschi 1635-8 《An Allegory of Peace and the Arts》RCIN 408464, Royal Collection Trust
https://www.rct.uk/collection/408464/an-allegory-of-peace-and-the-arts
La Gazette Drouot: Jode II, P. de (1601-1674). Allegory on Death
https://www.gazette-drouot.com/en/lots/13709170-jode-ii-p.-de-1601-1674

ターナーの「印象」

ボストン美術館(MFA)で、同館所蔵のターナー作品として唯一公開されているのが《奴隷船》(2022年12月現在)だ。

Slave Ship(1840) Joseph Mallord William Turner
MFA Accession# 99.22

光と色の混合に燃えるような筆致。それらが醸し出す靄のかかった画面は遠くからでも一目でターナーの作品とわかる。左右に異なる表情を見せる空と前面に盛んに荒れ狂う海の境目は、黄色と赤褐色の燃え立つ炎と沈みゆく太陽の交わりが劇的な風景を描き出している。そんな激動する水面に、夕方の日差しに染まる難破船が頼りなげに漂っています。手前には、波に抗する魚の群れと海に放り出された奴隷たち。自然の猛威の前では人間の力など及びようもない。

この作品は、海難事故の保険金目当てに船上の病人や死人を海に放り出したイギリス船の実話を元にした18世紀の詩にインスピレーションを得て描かれたそうだ。1840年にロイヤルアカデミーで公開され、その際にはターナーの未完成で未公開の「Fallacies of Hope(偽りの希望)」(1812)という詩も添えられていた。

ところで、ターナーは1818年にイタリア旅行の機会を得る。多くの特に北ヨーロッパの芸術家が経験するイタリアの光の洗礼をターナーも受けたのだろう。つまり、この旅を契機に彼の画面の明度が高まった。そしてこのころから、モチーフは具象というよりもターナーが受けた「印象」のままに描かれていくのだ。1838年にはイギリス国民が愛してやまない絵画《戦艦テメレール号》、1840年の《奴隷船》、そして3年後の1843年にはゲーテの理論を表現した『光と色』が発表されている。フランス印象派の始まりとされるモネの《印象・日の出》(1872)からは約30年先をいった印象表現が行われていたのだ。

この作品の来歴について少し。
1843年ターナーの代人からの最初の購入者はジョン・ジェームス・ラスキンといい、息子ジョン・ラスキンのために購入した。ジョン・ラスキンは美術評論家として、コレクターとして、さらにラファエル前派の擁護者として、ヴィクトリア期のイギリス芸術には頻出する人物。ジョン自身若い頃からターナーとの交流があった。そしてこの作品を、ターナーを不朽たらしめる一作と評している。

1869年ラスキンは本作品《奴隷船》をロンドンで売却することに失敗し、1872年にニューヨークでアメリカ人に売却する。その後も数回のアメリカ国内での売買をへて1899年ボストン美術館が購入し現在に至っている。

ところでMFAではもう一作、個人蔵のターナー作品が展示されている。

左 Ancient Italy(about 1838) 個人蔵
右 Slave Ship(1840)MFA所蔵

この2点、制作年に数年の差があるが画面構成がとてもよく似ている。《Ancient Italy》はローマ帝国に思いをはせた詩にちなんだ作品とのことで、手前に描かれた水揚げした戦利品らしきものや武装した人々が非武装の男を移動させている様子などに戦いの時代が垣間見られる。一方で強い光が作り出した靄のベールに包まれた美しい都市景観や、船着き場に座って肩を寄せ合う女性たちの存在のせいか、どこか穏やかな時間の流れも感じられる作品だ。

<参考サイト>
Joseph Mallord William Turner《Slave Ship (Slavers Throwing Overboard the Dead and Dying, Typhoon Coming On)》ボストン美術館
https://collections.mfa.org/objects/31102/slave-ship-slavers-throwing-overboard-the-dead-and-dying-t?ctx=b4e1dd76-f897-4ade-95aa-51a6d85b4e20&idx=0

ボストン美術館の浮世絵収蔵内訳

『ボストン美術館所蔵 俺たちの国芳 私の国貞』展のカタログにボストン美術館(MFA)の日本版画の絵師別収蔵数が掲載されている。今回はこのデータについてのお話。

まず「ボストン美術館に1000枚以上の作品が所蔵されている日本の版画の絵師」というタイトルの表が添付されている。

これまで私が記憶にあるのは2008年の『ボストン美術館浮世絵名品展 図録』のトンプソン氏の解説。かなり古い話ですが、その時点ではまだ登録は続けられており、ビゲロー・コレクションの浮世絵版画に関しても、「少なくとも30,000点になると確信する」という見通しを述べていた。これを踏まえて作品登録が完了したこの表を見ると、2011年に登録終了となったビゲロー・コレクションの版画総数33,264枚というデータは、当時のMFA担当者の確信に近い結果だ。

さて絵師別の数値。作品数の一番多いのは国貞の10,304枚。
ついで2番は広重5,776枚.、3番は国芳3,794枚、4番目初代豊国(国貞の師)1,563枚、5番目国周1,298枚、6番目北斎1,267枚…と続く。
国貞作品が他に比べてずば抜けて多いことがわかる。

つぎにこの表をコレクションごとに見ていこう。これは寄贈作品の多い2つのコレクションを比較している。
ビゲロー・コレクション*の1番は国貞9,088枚、2番目が国芳3,240枚、3番目が広重で1,736枚、4番目が国周1,192枚…。
一方でスポルディング・コレクション**の1番は広重2,383枚、2番目が春章452枚、3番目が北斎427枚…です。

ビゲロー・コレクションの総数は33,264枚で版画コレクション全体の63%を締めるといい、ビゲローの時代からすれば古い江戸時代の作品を、偏らず幅広く収集することに努めたようだ。
スポルディング・コレクションの総数は6,609枚で全体の12%で、とりわけ広重作品を好んで収集したようだ。そのおかげで絵師別作品数において広重が国芳を抜いて二番目に収蔵作品数の多い絵師となったことが指摘されている。さらにトンプソン氏は、スポルディング兄弟が入手した数少ない国貞と国芳の風景画について、19世紀の風景画収集は20世紀初めのアメリカのコレクターの典型的な嗜好であると指摘。影響を与えたのは1890年代フェノロサ***を代表とする“風景画により価値を置く見方”にスポルディング兄弟が影響を受けたことにも言及してる。いずれにしてもスポルディング・コレクションは門外不出。展示されることはない。

コレクターそれぞれのこだわりのおかげでMFAの所蔵は大変豊かなものになった。最終的には版画総数には現代作家による作品数も含まれているそうだが、それにしても膨大だ。とりわけビゲロー・コレクション。この数値を見ると2016-2017年の国芳国貞展の殆どがビゲロー・コレクションだということも納得だ。ビゲロー・コレクションも2000年までは美術館の規約により貸し出し禁止だったことを考えると規約が変更されて幸いだった。

2011年の作品登録終了から10年も経ったが、クニクニ展の日本版カタログが入手できたおかげでデータを知ることができた。

なおトンプソン氏はこの解説を「宝物の終の棲家を探すときにはMFAを思い出してほしい」という言葉で結んでいる。浮世絵版画の終の棲家としてMFA以上の場所はないと私も思う。この10年の間には新たな宝物が増えているに違いない。

セーラ・E・トンプソン(Sarah E. Thompson)
ボストン美術館 アジア オセアニア アフリカ美術部 日本美術課 キュレーター(Curator, Japanese Art Museum of Fine Arts, Boston)
注:日本語によるタイトルは参照文献による

*William Sturgis Bigelow Collection
**William S. and John T. Spaulding Collection
***Ernest Francesco Fenollosa: MFA日本部(のち東洋部)初代部長

<参照文献>
セーラ・E・トンプソン 2016「ボストン美術館の国芳と国貞」『ボストン美術館所蔵 俺たちの国芳 私の国貞』光村印刷 p.210-215

5年越しのカタログ

2016年に渋谷Bunkamuraで開催された『ボストン美術館所蔵 俺たちの国芳 私の国貞』展。帰国中に観ることができたものの、飛行機に預けるトランクの重量の問題でカタログの購入を断念して帰宅してからというもの、2017年にはMFAでも国芳国貞展もあり、完全に失念していた。それがふと思い立って見た古書サイトで発見。サイトの本の状態では「良好」とあったが、どう見ても新品。

ざっとめくって一番に目に入ったのは、MFA日本美術キュレーターのセーラ・トンプソン氏の解説。 2016−2017年の二カ国開催のクニクニ展がつぎつぎに目に浮かぶ。

「写楽画」という署名の春英作品 その2

はからずもふたたび春英作品の署名偽装事件発見。

前回同様、モデルは二代目嵐竜蔵。
左、「東洲斎寫樂画 」の署名に極印と蔦屋重三郎(耕書堂)の版元印。
右が「春英画」に岩戸屋喜三郎(栄林堂)の丸に岩の版元印で、こちらがまっとうな作品。
いずれも大判縦型の作品で長さはほぼ同じのようですが、右の春英署名の用紙の幅が3cm弱広いために画像が縦横のバランスに差が出ている。

勝川春英画(1795寛政7年)
二代目嵐竜蔵の寺岡平右衛門
資料番号:21.5965 MFA所蔵
勝川春英画(1795寛政7年)
二代目嵐竜蔵の寺岡平右衛門  
資料番号:21.5965  MFA所蔵

どう見ても同じ板。MFAのいずれのキャプションにも相互の作品の存在と、署名落款の差し替えのことが説明されている。さらに写楽名になってしまった作品には写楽本人の大首絵シリーズでも使われた雲母を、後から塗布されているとのこと。背景の紫がかった色がそれだ。光沢があって高級感を出すにはピッタリだったはず。そして店頭では高価な値段で売られたのだろう。

MFAは作品年を「1795(寛政7)年4月」としている。「都座」「仮名手本忠臣蔵」の表記もあるため、この点も作品年月の根拠の一つとも考えられる。
改印制度は1790(寛政2)年には始まっていて、丸に極の印は最初期のもの。写楽名の作品だけに極印があるのが気になるところ。

ここで忘れてはいけなないのが写楽の活動時期。1794(寛政6)年5月から翌1795(寛政7)年1月と言われている。ということは、この贋署名の作品が市場に出たときはすでに絵師写楽は存在しなかったということになる。
現在、長い年月を経て歴史の結果として写楽の活動期を知ることができたわけで、当時の人々にしてみれば数ヶ月のブランク後に写楽作品が売り出されても疑問を感じなかったかもしれない。ネットもSNSもない時代のこと、口伝てやかわら版などでの情報伝達の力量も気になるところだ。

偽署名に版元印を使われた蔦屋重三郎はどうだろう。本来であれば黙っていたとは思えないが、全力でプロデュースした絵師写楽も活動を停止してしまった蔦屋重三郎の最晩年。1797(寛政9)年に脚気で亡くなったところからすれば、数年前から病で気力も衰えていたのかもしれない。

春英名の方に極印がないということは、1795年の段階では写楽名の方だけが店頭に並んだのではないかと想像する。春英名の方はどこかに保管されていたものが改印制度が廃止以降に市場に出たのかもしれない。…春英は知っていたのだろうか。

春英の面目躍如となる作品をお伝えしたいものだ。

<参考サイト>
勝川春英《二代目嵐竜蔵の寺岡平右衛門》Museum of Fine Arts, Boston 
https://bit.ly/3hq3WYG
勝川春英《二代目嵐竜蔵の寺岡平右衛門》Museum of Fine Arts, Boston 
https://bit.ly/3yslGtt