《妹背山婦女庭訓》の出版時期

以前、私の手元の《妹背山婦女庭訓》には改印がないという話をした。作品上に改印がないとなれば、絵師の活動時期と照らして改印制度が廃止されたあとの時代1875(明治8)年以降と考えるしかない。

これまでの調査での芳瀧の活動期は“明治中期”までという、これまた大雑把なもの。明治は45年までなので、仮定とするざっくりした時期は1875(明治8)年 〜 1887(明治20)年前後となる。

役者絵の出版時期確定の裏付け探しの場合、役者の動向も役に立つ。

浮世絵版画の役者絵には、キャラクター名と役者名が書かれていることが多い。これを頼りに、その役者がそのキャラクターを演じたのはどこの劇場で、いつ興行されたかという情報を探っていくのだ。

歌舞伎役者の名前は名跡として受け継がれるものが多いため、何代目かというところは要注意。活動期間が短いとか、あまり人気のない役者の場合も捜索が難しくなる。それでもやってみる価値のある調査だろう。

プッチーニ

トスカーナ・ルッカ出身の作曲家ジャコモ・プッチーニ(Giacomo Puccini)。

プッチーニと聞いてピンとこない方も、“あ〜る晴れた〜日〜”という『マダム・バタフライ(蝶々夫人)』のアリアなら聴いたことがあるかもしれない。プッチーニは、1800年代初めのロッシーニ作『セヴィリャの理髪師』から約110年に及ぶ、イタリアオペラ黄金時代の終盤を飾る作曲家なのだ。

昨夜、プッチーニの半生をドラマ化した番組をみた。イタリア国営放送(Rai)制作ということでかなり期待。わずか2話だが、大雑把にまとめながらも史実に忠実に、そして愛情表現は細やかに描く、というところが想像通りでイタリア的だった。

プッチーニの最も知られている作品といえば『ラ・ボエーム』『トスカ』『マダム・バタフライ』。それぞれの主人公はすべて女性だ。深い愛情をいだきながらも自らの力ではどうにもならない状況に追い込まれる運命で死んでいく悲劇だ。そして彼らは高貴な身分ではなく一様に“清く貧しく美しく”生きる娘たちだった。

ドラマの中でプッチーニは、出会う女性すべてに恋をする。場末の盛り場で小遣い稼ぎのピアノ弾きをすれば踊り子といい仲になり、声楽教師に行けば教え子となった実業家夫人と駆け落ちする(妻となるエルヴィーラ)。かなりの遊び人というよりほかない。そんな彼の行動から、後には、プッチーニ家に仕えていた若い女中が、プッチーニ夫人からあらぬ疑いをかけられて自殺に追いやられるというスキャンダルまで起きる始末。しかし実際は、父親を早くに亡くしたため母親と5人の姉妹に弟が一人という女性優位の家庭環境で育ったことによる女性に対する親和性の高さが影響したという見方もあり、決して無分別に女性を軽く見て関係を繰り返したのではないというのが専門家の見解だが、どうだろう。

そんなプッチーニだからなのか、彼の行動範囲はとても庶民的。巷で出会う人々は彼のインスピレーションの源。プッチーニ作品にはこうした普通の人々が情緒豊かな旋律として描かれている。

市井の日常生活を主題にして、情熱的で強い、時に暴力的な感情を表現する作品をヴェリスモ・オペラという。1900年代最後の10年間、イタリア・オペラで栄えました。プッチーニ作品の中では、劇中3人が死を迎え暴力的描写も鮮明な『トスカ』がその傾向が強いと言われている。

ちなみに、作品内容からヴェリズモ・オペラの傾向が見られる有名作品として、ビゼーの『カルメン』や、ヴェルディの『ラ・トラヴィアータ』があります。いずれもドラマチックで、人気の高いオペラだ。

プッチーニの人生最後の作品は『トゥーランドット』。未完の作だ。一見、王子と王女の物語でいつものプッチーニ作品とは異なる設定だが、ここでも「リュー」という心優しい召使いが重要な役目を果たしている。プッチーニの視線が市井の人々から離れなかったことがうかがえる。

実生活での女性関係は生身の人間同士問題はあったに違いないが、プッチーニの繊細で心のこもった振る舞いによって女性たちも心を開き、そこで深められた関係を創作の糧としてしっかり作品に投影しているところは、世に名だたる表現者、アーティストによく見られる習性と、鑑賞者には受け入れやすいのだが…。

参考:https://www.britannica.com/art/verismo-Italian-opera

《妹背山婦女庭訓》その4

前回のポストイットの内容から作品の基本情報となる部分について少しまとめてみた。

作品名:妹背山婦女庭訓(いもせやま おんな ていきん)巻、六 大尾 
版元:日本橋南詰 本安 (松栄堂 本屋安兵衛 大阪道頓堀日本橋南詰東江入南側)
絵師落款:笹木芳瀧画

中井芳瀧(芳滝)1841-1899 幕末から明治時代の浮世絵師。
1841(天保 12)年2月22日生まれ。国芳派、歌川芳梅 (よしうめ) の門人。大坂の浮世絵師で役者絵、美人画を得意とした。1874−75(明治7、8)年頃に笹木家を継ぐも、後に浮世絵師 笹木芳光に譲っている。活動期は1854年11月〜1860年2月(安政期)〜 明治中期。1899(明治32)年6月28日、59歳で死亡。別号に一養亭、一養齋、里の家などがある。

この作品は「笹木」姓なので1874年以降、笹木姓を名乗っている間の作品ということになる。

さて、「妹背山婦女庭訓」の上演劇場を探していて大阪の角座にたどり着いた。芳瀧の時代よりもちろん随分遡るが、長崎の出島に医師として来日していたシーボルトも「妹背山婦女庭訓」を見物したそうだ。

かどざ【角座】
大阪市南区西櫓町の劇場。1652年(慶安5)の道頓堀芝居名代御定のおりの大坂太左衛門芝居に始まる。太左衛門橋を南へ渡った角にあったため角の芝居と呼ばれた。元禄期から竹嶋幸十郎・村山平十郎・竹嶋幸左衛門らが座本として活躍。1758年(宝暦8)並木正三が回り舞台を創案して大当りした。1826年(文政9)江戸参府の途次シーボルトが《妹背山婦女庭訓》を見物した劇場。大西芝居の衰退後も,幕末まで一貫して中の芝居(中座)と共に大芝居の劇場として隆盛を保つ。
「角座」平凡社世界大百科事典 第2版 2018


《妹背山婦女庭訓》 その3

画面上で黒枠赤地に文字が書かれた短冊が人物の近くに置かれている。役者絵にはこうしたレイアウトをよく見かける。それぞれ近くの人物のキャラクター名とそれを演じる役者名が書かれているのだ。

BlueIndexStudio所蔵

紙面左上から

①「妹背山婦女庭訓 巻ノ六 大尾」
②「笹木芳瀧画」

ひと枠おいて一番下
③「日本橋南詰 本安版」

反対側、右上から時計回りにいきます!

1)「橘ひめ 中村福助」
2)「藤原淡海 中村宗十郎」
3)「荒巻弥藤次 大谷龍左衛門」
4)「金輪五郎 尾上多見蔵」
5)「玄上太郎 實川延若」
6)「宮越玄蕃 實川菊蔵」
7)「藤原鎌足 市川鰕十郎」
8)「入鹿大臣 **之入鹿(?)」

注:この欄は、一行目の「入鹿大臣」は木版印刷ですが、二行目はなんと直筆だ。誰がいつ書いたものか。めずらしい謎解きのおまけ付き。

ところでこの作品、改印(極印)が見当たらない。

改印とは、幕府による出版統制のために行われた検閲で、1790(寛政2)年から1875(明治8)年まで行われたものだ。大量に出版された錦絵の謎解きには欠かせないヒントとなる。

改印は作品内に置かれるのが一般的。芳瀧の活動期、安政(1854年11月−1860年2月)〜 明治中期を考慮してすると、1875年(明治8)の改印終了後の作品の可能性がある。

笹木芳瀧

浮世絵師、笹木芳瀧(ささき よしたき)について。
錦絵《妹背山婦女庭訓》の絵師だ。

笹木芳瀧は、1841(天保12)生まれ。
姓は中井、名は恒次郎。一時期笹木姓を名乗ったそうで、この《妹背山婦女庭訓》はその時期の作品と推測している。

号は、一養斎・一養亭・養水・里の家・豊玉・寿栄堂・阪田舎居・糊屋。

歌川国芳門下の歌川芳梅に入門、大阪や和泉・堺で浮世絵師として活躍した。
活動期は安政(1854年11月−1860年2月)〜 明治中期。明治中期、明治20年代前後だろうか。役者絵、美人画を得意としたようだ。1899(明治32)年没、59歳だった。

ボストン美術館(MFA)アーカイブサイトで「Yoshitaki」で検索すると、現段階で芳瀧作品317点がヒットする。そのうち246点が役者絵だ。ちなみに、そのつぎにMFAで多いのは美人画ではなく名所絵だった。

<参考文献>
小林忠/大久保純一 2000「浮世絵の鑑賞基礎知識」至文堂
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」『歌川芳梅』 講談社 
<参考サイト>
コトバンク「里の家芳滝」(2021/1/10閲覧)
https://bit.ly/3tE3nz2
Museum of Fine Arts Boston Collections Search 「Yoshitaki」(2021/1/10閲覧)
https://collections.mfa.org/search/objects/*/yoshitaki

新春

新しい年。2021年、令和3年。

日本でオリンピック・パラリンピックが開催されるであろう年。

昨年は世界中痛みの多い一年だった。ことしはその分も幸い多い年となるよう願うばかり。

そこで、今年最初の作品。

心が浮き立つ錦絵を。

香蝶楼豊国画 BlueIndexStudio所蔵

流行りの格子の長着から襦袢の赤を片腕だけ見せて、重ねの色目と柄の組み合わせが絶妙に粋。桜の下のお楽しみの一献。ひょうたん(酒)を吊るした木の枝をヒョイと肩にかけて、このポーズ。

意気な江戸っ娘の夜桜見。

今年は花見ができることを願って。

如意輪観音

擬宝珠を調べていたとき、如意宝珠の持ち主の一人である「如意輪観音」が気になったので調べてみた。

菩薩は、如来を目指して悟りを求める修行者。王子の身で修行中だったお釈迦様がモデルとなっているため、地蔵菩薩を除いて、装飾品を身に着けて優美な雰囲気を漂わせている仏像が多いのが特徴。

如意輪観音は如意輪菩薩ともいわれ、如意宝珠と法輪(仏の教え)を用いて「命あるものすべてを救済する」のが仕事。

如意とは「思いのまま」ということ。

この観音様の思いのままにどんな困難からも救っていただけるとは、なんとも心強い。

さてお姿。右膝を立ててその右足裏を左足の裏と合わせてゆったりと座り、思いにふけるかの面持ち。それとは対象的に六臂(腕が6本)は、如意宝珠や宝輪・数珠などを持ちいかにも忙しそうだ。

臂に関しては二臂像から十二臂像まで像によって様々だとか。

今私が見ているのはボストン美術館アーカイブのビゲローコレクション(William Sturgis Bigelow Collection)の『六観音像扉絵 如意輪観音』鎌倉から南北朝時代の板絵だ。

六臂を備えたこの像は全身に宝飾をまとい金彩も美しく残っている。伏し目がちながら何かを凝視するような眼差しが印象的。

如意輪観音の表情は「思惟憐憫の情」を表しているのだそう。

ただ見ているだけでも心が安らかになるようだ。

いつもより新しめ

隣町のジャンクショップをふらふらしていた時に目を引いたかなり古めのカップボード。普段見かけないその大きさに思わず周囲をぐるりと回ってみたところ、押し付けられた壁とボードの隙間に一枚の薄い額がある。引っ張り出してみると錦絵だった。 

BlueIndexStudio所蔵

これ以外にアジア系のものなど全く見当たらないこの店。どんな経緯で流れ着いたのだろう。幕末から明治初期の赤と青の氾濫、折ったあとはあるけれどカビがないのはうれしい。

桜屋の小万

豊国画『桜屋の小万』BlueIndexStudio所蔵

隣町のはじめて行った骨董屋で見つけた比較的状態のよい錦絵。これまた縁もゆかりもないような額に囲まれて、作品入りながら額の売り場に置かれていた。実際私も古い額を探しながらそこにたどり着いたわけだから不思議な縁だ。

その場で作品だけを取り出してみることはできなかったが、目立った欠損やカビもなく状態良好。額装はマットや木製額の様式からも現代の画廊などによるプロの額装だった。現在の額装の前も額装されていたなど、丁寧に保管されながら日本を離れたのではないかと想像している。

額を売る目的の値段設定で、作品の価値は加えられてないのが逆に寂しい気がしたが、どの道大事にする手に渡ったこの作品は強運を持っている。

ガラス絵とは

板ガラスの裏側から泥絵具や油絵具を使って描かれたものをガラス絵(ビードロ絵)という。裏から描いて表から鑑賞するものだ。

泥絵具とは、天然の土や貝殻を砕いて粉末状にしたものに膠を混ぜたもので、江戸時代は芝居の看板絵や絵馬の制作に使われた。不透明で濁った色と質感から油絵具に似たものと捉えられ、幕末から明治初期のガラス絵などに使われたそうだ。

ガラス絵は木版画の彫りと同じように元絵の裏側の図柄を描くわけだが、泥絵具は濃度があり筆致が残るため、表側から見える仕上がりを意識して、通常とは逆の順番で描いたようだ。

ガラス絵は当時国内で唯一海外に開かれていた長崎からもたらされた。江戸時代に長崎を通して中国のガラス絵が輸入され長崎派の画人が創作をはじめた。1570年の開港以来長崎にはさまざまなガラス製品が輸入されていて、ガラス絵の技術は長崎の職人にも受け入れやすかったのだろう。次第に江戸にも伝えられ浮世絵の美人画などを画題として制作された。

ガラス絵のサンプルを収集するべく、収蔵されていそうなオンラインサイトの検索を続けているが信頼にたる情報には出会えていない。錦絵に比べれば制作数が少ないことは覚悟していたが、加えてガラスは壊れもの、今日まで残る(残す)ことはなかなか難しいのかもしれない。


<参考文献>
小林忠「泥絵」『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館
東京芸術大学大学院文化財保存学日本画研究室編 2007「泥絵具」日本画用語事典 東京美術