ターナーの「印象」

ボストン美術館(MFA)で、同館所蔵のターナー作品として唯一公開されているのが《奴隷船》(2022年12月現在)だ。

Slave Ship(1840) Joseph Mallord William Turner
MFA Accession# 99.22

光と色の混合に燃えるような筆致。それらが醸し出す靄のかかった画面は遠くからでも一目でターナーの作品とわかる。左右に異なる表情を見せる空と前面に盛んに荒れ狂う海の境目は、黄色と赤褐色の燃え立つ炎と沈みゆく太陽の交わりが劇的な風景を描き出している。そんな激動する水面に、夕方の日差しに染まる難破船が頼りなげに漂っています。手前には、波に抗する魚の群れと海に放り出された奴隷たち。自然の猛威の前では人間の力など及びようもない。

この作品は、海難事故の保険金目当てに船上の病人や死人を海に放り出したイギリス船の実話を元にした18世紀の詩にインスピレーションを得て描かれたそうだ。1840年にロイヤルアカデミーで公開され、その際にはターナーの未完成で未公開の「Fallacies of Hope(偽りの希望)」(1812)という詩も添えられていた。

ところで、ターナーは1818年にイタリア旅行の機会を得る。多くの特に北ヨーロッパの芸術家が経験するイタリアの光の洗礼をターナーも受けたのだろう。つまり、この旅を契機に彼の画面の明度が高まった。そしてこのころから、モチーフは具象というよりもターナーが受けた「印象」のままに描かれていくのだ。1838年にはイギリス国民が愛してやまない絵画《戦艦テメレール号》、1840年の《奴隷船》、そして3年後の1843年にはゲーテの理論を表現した『光と色』が発表されている。フランス印象派の始まりとされるモネの《印象・日の出》(1872)からは約30年先をいった印象表現が行われていたのだ。

この作品の来歴について少し。
1843年ターナーの代人からの最初の購入者はジョン・ジェームス・ラスキンといい、息子ジョン・ラスキンのために購入した。ジョン・ラスキンは美術評論家として、コレクターとして、さらにラファエル前派の擁護者として、ヴィクトリア期のイギリス芸術には頻出する人物。ジョン自身若い頃からターナーとの交流があった。そしてこの作品を、ターナーを不朽たらしめる一作と評している。

1869年ラスキンは本作品《奴隷船》をロンドンで売却することに失敗し、1872年にニューヨークでアメリカ人に売却する。その後も数回のアメリカ国内での売買をへて1899年ボストン美術館が購入し現在に至っている。

ところでMFAではもう一作、個人蔵のターナー作品が展示されている。

左 Ancient Italy(about 1838) 個人蔵
右 Slave Ship(1840)MFA所蔵

この2点、制作年に数年の差があるが画面構成がとてもよく似ている。《Ancient Italy》はローマ帝国に思いをはせた詩にちなんだ作品とのことで、手前に描かれた水揚げした戦利品らしきものや武装した人々が非武装の男を移動させている様子などに戦いの時代が垣間見られる。一方で強い光が作り出した靄のベールに包まれた美しい都市景観や、船着き場に座って肩を寄せ合う女性たちの存在のせいか、どこか穏やかな時間の流れも感じられる作品だ。

<参考サイト>
Joseph Mallord William Turner《Slave Ship (Slavers Throwing Overboard the Dead and Dying, Typhoon Coming On)》ボストン美術館
https://collections.mfa.org/objects/31102/slave-ship-slavers-throwing-overboard-the-dead-and-dying-t?ctx=b4e1dd76-f897-4ade-95aa-51a6d85b4e20&idx=0

浮世絵とクリムト2

クリムトの署名についてもう少し深めてみよう。アーティストにとって署名は自らが制作者であることを伝える意味をもつ。著作権の主張。署名したアーティストによる完成した作品であるという保証にもなる。

Portrait of Hermine Gallia (1904)
National Gallery London(NG6434)

こちらは《ヘルミーネ・ガリアの肖像》。

署名は正方形の地色はブルーパープル、文字はゴールド。ガリアの背景もブルー系だが全体にシルバーで覆っているため靄がかかったようにトーンダウンしている。しかし署名のブルーパープルにはシルバーを乗せていない。そのため署名は鮮やかなブルーパープルの正方形で目を引くのだ。

モノグラムはないが落款風の署名スタイルは《エミリア・フレーゲの肖像》(1902)と同じ形式。そして作品サイズがほぼ等身大(170.5 × 96.5 cm)というのも共通だ。

この署名は右上、モデルのほぼ頭頂の高さに合わせている。通常絵画の署名の多くは作品の下方だが、鑑賞者にとってこの位置はガリアの目に導かれながら容易に目に入るだろう。

クリムトの落款風署名は、主に当時のウィーンの中流・資産家知識階級の女性肖像画に見られる。

さて1905年、クリムトは自ら率いたウィーン分離派を離脱する。とはいえクリムトの名声は1900年初めにはすでに確立されており、パトロンたちにとってはクリムトのモデルとなりその肖像画をウィーン社交会のメンバーが訪れる自邸宅の壁に飾ることは、彼らのステイタスを高めるものだったようだ。

《マルガレーテ・ストンボロー=ウィトゲンシュタインの肖像》(1905)や《フリッツア・リードラーの肖像》(1906)、《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I》(1907)などの署名は画面下方置かれているが、やはり位置も色選びも独特だ。

ヘルミーネ・ガリアはウィーンの実業家夫人で、マルガレーテ・ウィトゲンシュタインの父は大資産家でウィーン分離派のスポンサーであり2人の弟はピアニストのパウルと哲学者のルートヴィッヒ。フリッツア・リードラーは高級官僚夫人。映画「Woman in Gold」(2015)で知られるアデーレ・ブロッホ=バウアーも実業家夫人。こうした人々がウィーン分離派やウィーン工房の活動を後押ししていた時代だったのだ。

クリムトにとっては目立つ署名は、ウィーン芸術の近代化をリードするアーティストとして独自のスタイルで描いた作品の制作者であることを一目瞭然の署名で宣言することで、新たな潮流をアピールする絶好の機会だったのだろう。

最後にもういちど《ヘルミーネ・ガリアの肖像》のブルーパープルにゴールドの落款風署名に戻ってみよう。実を言えば第一印象が紺紙金泥の写経だった。濃いめの青と金色は相性がいいうえクリムトも好んでいた二色だ。何も根拠のないけれどクリムトは古い紺紙金泥で書かれた法華経なども見ていたのかもしれない。

<参考サイト>
Sarah Herring 2022 「Why do artists sign their works of art?」National Gallery London
https://www.youtube.com/watch?v=PQqSjrz29eU

《Portrait of Hermine Gallia》National Gallery London
https://www.nationalgallery.org.uk/paintings/gustav-klimt-portrait-of-hermine-gallia

浮世絵とクリムト

黄金様式で知られるグスタフ・クリムトは19世紀末から20世紀初頭オーストリアを代表する画家だ。1897年には古典主義からの脱却を望む芸術家を率いてウィーン分離派(Wiener Secession)を立ち上げた。ウィーン芸術の近代化を目指しヨーロッパ各地で起こった美術と工芸の融合(Arts and Crafts Movement)をウィーンで率いたのはクリムトだった。

ヨーロッパではこの頃「ジャポニスム」といわれる日本趣味・日本美術ブーム。
浮世絵版画の認知は、海外最初の記録はフランスのF. ブラックモンと《北斎漫画》との出会いが始まりと言われている。年代については1856年、1859年など諸説ある。それより前の1851年には最初の国際博覧会がロンドンで開催されたが、日本最初の参加(ごく小規模)は1865年のパリ万博まで待たなければならなかった。そして日本政府としての正式参加は1873年のウィーン万博となった。浮世絵は当時の展示品リストに含まれている(西川, 2007)。この時日本パビリオンは大変な盛況で、ウィーン中が「扇」だらけになったという記録もある(西川, 2007)。こうした経緯から日本文化はクリムトの活動期には芸術家知識人などのあいだですでにある程度認知されていたと考えられる。

クリムトは1862年生まれ。1876年にはウィーン工芸学校で学んだ。父親は金細工師。後のウィーン近代化に向けた力強い活動からも、美術・工芸分野の世界的な動向を注視していたことがうかがえる。そして多くの芸術家同様に浮世絵版画を収集していた(Herring, 2022)。 

エミリア・フレーゲの肖像 (1902)
Wien Museum
Inventory number 45677

左は長年クリムトのパートナーであったファッションデザイナーのエミリア・フレーゲの肖像。平面的で意匠化された画面・配色などにジャポニスムの影響が見られる。

画面の右下に黄色と緑の正方形。

黄色の正方形は名前と姓が改行して書かれています。左右がきっちり合っていて、その下に一行分の空白を取り、最後に作品年を左右に二文字づつ分けて、中心に二文字分ほどの空白をとっている。

緑の正方形は、GとKでデザインされたモノグラム。ウィーン分離派のメンバーは全てモノグラムを持っており、現在のThe Vienna Secession公式サイト*でも見ることができる。

名・姓・作品年を改行しデザインされた署名には、同時期のもう一つの潮流アール・ヌーヴォーの特徴も見える。
しなやかな曲線・曲面と装飾で描かれる画面では文字デザインも入念に行われ、こうしたスタイルの署名は同時期のほかの作家作品でもたびたび見られる。しかしその多くは背景に溶け込むように、いわばあまり目立たない署名が一般的だ。

しかしクリムトの場合、その部分の地色を変えて背景から際立たせている。作品内に使われている二色を用いたとはいえ、黄色の地に黒の署名は特に引き立っていて、フレーゲのデコルテに描かれた幾何学模様以上に目を引く。

名所江戸百景 深川木場 (1856)
歌川広重 国立国会図書館

こちらは広重の《名所江戸百景 深川木場》。浮世絵版画では画題や絵師名などを様々な形に枠取りし、彩色をして際立たせる方法は頻繁に使われる。名所江戸百景シリーズでは、署名とシリーズ名は短冊型、サブテーマが正方形で、右上に2つ並べた赤と黄のタイトルは黒色のはいけいから一層引き立っている。

クリムトを語るとき、琳派との関連を取り上げられることが多い。このフレーゲ肖像の青・緑・黄の色使いにも琳派の雰囲気を感じる。落款風の署名は、肉筆書画の観察によるだろう。そしてクリムトも浮世絵を仕事場の壁にかけていた(Herring, 2022)ということも知られている。

クリムトが《名所江戸百景》を実際に見たかどうかはわからない。この名所画がクリムトのコレクションになかったとしても、浮世絵をはじめとする日本美術からのインスパイアを受けたことは想像に難くない。

クリムトにとってのジャポニスムは、さまざまな時代の潮流と相まった独自のスタイルを生み出すほどに昇華された。そのことがよく伺える肖像画だと思う。

参考文献

《Bildnis Emilie Flöge》Wien Museum
https://sammlung.wienmuseum.at/en/object/820521-bildnis-emilie-floege/

西川智之 2007「ウィーンのジャポニスム 1873年ウィーン万国博覧会」『言語文化論集 』27 (2) 名古屋大学大学院国際言語文化研究科

歌川広重《名所江戸百景 深川木場》国立国会図書館(NDL)デジタルコレクション(2022/10/03閲覧)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1312342?tocOpened=1

博覧会 近代技術の展示場(2022/10/03閲覧)
https://www.ndl.go.jp/exposition/s1/index.html

Sarah Herring 2022 「Why do artists sign their works of art?」National Gallery London
https://www.youtube.com/watch?v=PQqSjrz29eU

*The Vienna Secession公式サイト(2022/10/03閲覧)
(クリムトのこの作品のモノグラムは現在サイトで見られるデザインとは異なっている。)https://www.theviennasecession.com/monograms/

2022年の李禹煥(リ・ウーファン)

Covid後初の帰国中、乃木坂の国立新美術館で「李禹煥展」を観ることができた。
国立新美術館開館15周年記念というだけに、1960年代の作品から本年の作品まで一気に味わえる充実ぶり。

関係項ーアーチ(2022)国立新美術館, 東京

《関係項》は李禹煥が長年にわたって素材や表現を変えながら作り続けている。石、鉄板、ガラス、木材などから、近年はアクリルや液体なども加わっている。私たちはひとつの《関係項》に2つの素材を見ることが多いが、当然そこには創作者のモノとの関わりが隠れている。モノと環境の関係。何かと何かの関係 素材・質感の相違による関係。モノは置かれた状況や他のモノとの関係でも役割が変化する。あるいは本来の役割を失う。そしてそれを見る側の見方によっても変化する。

前回李禹煥作品を見たのは2007年のヴェネツィア・ビエンナーレ期間中Palazzo Palumbo Fissatiで開催されたの個展だった。

展示風景(2007)Palazzo Palumbo Fissati, Venezia 

李禹煥と私は余白の好みが近いのだ、と勝手に思っている。作品に取られる余白は空(くう)でも無でもなく、空気がながれ、見る側にいる私までもそれを感じるからだ。

余白と言えば思い出すのが書の余白。書は白と黒の世界。まだ私が十代になったばかりのころ、書の師匠は、書き上がったら余白をみるようにといっていた。つまり、余白が美しいとき私の書もよくかけていると。それから今に至るまで平面も立体も、余白を見ること、いわゆる図と地の観察が癖になっている。

李禹煥の平面作品には書の経験を感じる作品が多い。平行と垂直のバランス。《線より》など見ていると、書の創作と重ねて、どれぐらい息を止めて描いたのだろうと想像する。美しい余白、地と図の完璧なバランス。そのストイックな集中の後に押し寄せるであろう疲労と恍惚までも共有してしまう。

展示風景 (2007) Palazzo Palumbo Fissati, Venezia 

そしてどの作品でも、《風より》のような一見ランダムな筆跡に見える作品や、広い空間でのインスタレーションであっても、作品の完結の仕方に優れた書家の作法が感じられる。

草間彌生や村上隆が現代アート作家日本代表として世界的な活躍を見せて久しい2000年代に入ってからも、イタリアのアート関係者からは「具体」とか「もの派」という言葉を頻繁に耳にしたものだ。

などと考えながら、ふと、ミラノ在住でイタリアを中心に活躍された長沢英俊氏を思い出した。連絡をいただきながらお会いできずに終わったことが悔やまれる。

今回の李禹煥展、観客がひいた展示室で美術館員に「李先生はお元気ですか?」とこっそり聞いてみた。「はいっ!お元気ですよ。」との即答。作品に触れた満足感がより膨らんだ。

梅と桜

《梅王丸と桜丸》にも見られるように、梅と桜は並び称されることが多い花だ。

江戸時代以降の春の娯楽としての花見の普及もあり、現在は桜がより身近になっているが、はるか昔、桜より梅の方が人々の関心を集めていたと言われている。

梅から桜への人気の移行期は奈良〜平安時代らしい。その頃といえば和歌集の編纂が多く行われた時期だ。

例えば、平安時代初期に編まれた最初の勅撰和歌集『古今和歌集』。「大和歌は、人の心を種として、よろずの言の葉とぞなりにける」の序文も有名。この和歌集は春の歌から始まる。和歌の題材としての梅と桜に注目してみよう。

巻第一「春歌上」と「春歌下」には168首の和歌が選ばれている。そこで、和歌の中の梅と桜それぞれの出現和歌数を調べてみた。

梅:「春歌上」15首、「春歌下」0首 計15首
桜:「春歌上」17首、「春歌下」18首 計35首

さらに、和歌のなかで「花」といいながら、詞書から梅、または桜を詠んだと理解できる和歌は次のとおり。

詞書から梅を詠んだと判断できる和歌:「春歌上」2首、「春歌下」0首 計2首
詞書から桜を詠んだと判断できる和歌:「春歌上」3首、「春歌下」4首 計7首

ちなみに、これらの中に混在するかたちで花の名前ではなく「花」を使う和歌もみられる:
「春歌上」9首、「春歌下」27首 計36首

最初の梅と桜の比較だけをとっても、桜の出現数が多いことが見て取れる。
つまり、平安時代の初めにはすでに桜の方が梅よりも身近な、あるいは琴線を揺さぶる花になっていたようだ。

参考文献
佐伯梅友 注 1958 「古今和歌集巻第一、巻第二」『古今和歌集 日本古典文学大系8』岩波書店



シタ売


豊国の錦絵《舎人梅王丸・舎人桜丸》に、縦型楕円の枠に「シタ賣」と押印がある。「賣」は「売」の旧字体。ちょうど「村田」「米良」の2つの改印に続いて置かれている。

舎人梅王丸・舎人桜丸 (部分) BlueIndexStudio所蔵

これは「下において売る」という意味だ。地本問屋・書物問屋など出版物を販売していた当時の書店では、錦絵などを客からよく見えるように吊るすなどして販売していた。しかし、この印が押された版画は、下げたり飾ったりせずに下に置くなど「目立たないようにして売るように」という但し書きが加えられた形だ。

この時期は2名の町名主が作品検分をしていた。担当町名主は「村田」「米良」。「シタ賣」印の有無も町名主の判断となる。

この印が使われた時期は1850(嘉永3)年3月から約4年間、似顔絵とわかる役者絵の一部(竹内 2010)に押印されていた。

今回の作品は1850(嘉永3)年7月の江戸・中村座上演にあわせたもので、梅王丸は7代目市川高麗蔵、桜丸は初代坂東しうかを描いたものであることが、早稲田大学演博データベースによって確認できる。

『江戸文化の見方』によれば、1850(嘉永3)年3月は、天保改革の奢侈禁止令に触れて江戸払い(江戸十里四方追放)になっていた5代目市川海老蔵(7代目市川團十郎)が赦免となり江戸の舞台に復帰した時期であるために、話題の人気役者海老蔵を題材にした作品に「シタ賣」が押印されたものが多く見られるとのこと。

ちなみに、梅王丸を演じた7代目市川高麗蔵は5代目市川海老蔵の三男ににあたる。

天保改革により禁止されていた役者絵の流通が復活を見せていた時期。出版業界としては売れ筋の役者絵が再度の禁止令を受けることを危惧し、控えめな販売方法を促すために使われたのが「シタ賣」印だということだ。

<参照文献>
竹内誠 2010 「出版統制」『江戸文化の見方』角川学芸出版 p.316−317

<参考サイト>
早稲田大学文化資源データベース《舎人梅王丸・舎人桜丸》
https://bit.ly/3Kjtjcg(2022年1月11日閲覧)

梅王丸と桜丸 

2022年、令和4年の最初の作品は、梅と桜で華やかに。

舎人梅王丸・舎人桜丸 豊国画 BlueIndexStudio所蔵

作品名:舎人梅王丸、舎人桜丸(とねりうめおうまる とねりさくらまる)
板元:恵比須屋庄七
落款:豊国画(年玉枠)
絵師:三代豊国(国貞)
改印:米良・村田(シタ売)
判型:大判 錦絵
出版時期:;1850(嘉永3)年
興行名:菅原伝授手習鑑
上演:1850(嘉永3)年7月11日
上演場所:江戸・中村座

退色は画像のせいだけではなく実際にみてもこんな感じ。一方で目立つカビや虫食いもないところから安定した平らな場所か額装などの保存状態であったようだ。

この作品にはあまり一般的ではない「シタ賣」という押印がある。これについては改めて。

<参考サイト>
早稲田大学文化資源データベース『菅原伝授手習鑑』
https://bit.ly/3nmjEI2(2022年1月11日閲覧)

5年越しのカタログ

2016年に渋谷Bunkamuraで開催された『ボストン美術館所蔵 俺たちの国芳 私の国貞』展。帰国中に観ることができたものの、飛行機に預けるトランクの重量の問題でカタログの購入を断念して帰宅してからというもの、2017年にはMFAでも国芳国貞展もあり、完全に失念していた。それがふと思い立って見た古書サイトで発見。サイトの本の状態では「良好」とあったが、どう見ても新品。

ざっとめくって一番に目に入ったのは、MFA日本美術キュレーターのセーラ・トンプソン氏の解説。 2016−2017年の二カ国開催のクニクニ展がつぎつぎに目に浮かぶ。

頓兵衛娘於ふね

国芳の《頓兵衛娘於ふね》の基本情報。

BlueIndexStudio所蔵

画題:頓兵衛娘於ふね(とんべえむすめおふね)

版元:元飯田町中坂 人形屋多吉

落款・押印:一勇齋国芳(芳桐印)

改印:村田・米良

もう一つ、この作品には裏張りあり。

『Final Portrait』

邦題は『ジャコメッティ 最後の肖像』。

スイスのイタリア語圏出身でフランス・パリで活躍した芸術家、アルベルト・ジャコメッティ(Alberto Giacometti)が主人公。2017年公開の英米合作映画です。

ジャコメッティといえば無駄を極限まで取り除いた細長い男女や動物のブロンズ像で知られている。数少ない肖像画も彫刻同様に心を射抜かれるようなインパクトがある。

この映画は、ジャコメッティの最後の肖像画となった作品を制作する17日間を通して、彼の人となりや生き様を描き出したものだ。

映画は肖像画のモデル、ジェームス・ロードを通して語られる。彼はアメリカ人のライターでジャコメッティの友人。ジャコメッティは自らの作品に満足することがない。彼の作品は“アーティスト的には”全てが未完という運命を背負っている。ロードはアメリカへの帰国の飛行機を何度も変更しながら根気強く画家の前に何度も座る。

仕事中の画家は、ときにはモデルと言葉をかわし、自らの思いを語ります。

「私は不誠実で嘘つきだ。今まで見せてきたものもみな未完成で、そもそも始めるべきではなかったのかもしれない…神経症なんだ…」

「自殺は最も魅力的な経験だと思うよ。ただ興味があるだけだけど。睡眠薬やリストカットじゃなく生きたまま燃えるのがいい。」

ー不幸せや居心地の悪い環境だけがジャコメッティを幸せにするー

アーティストの兄を献身的に支え続けた弟ディエゴの言葉だ。

ジャコメッティのおそれもまた、日常を刺激して我が身を破綻に導きながらそれを創作の糧とする多くのアーティストの生き様に重なる。

ジャコメッティと妻のアネッティ、弟ディエゴ、モデルで愛人のカロリーヌ、それぞれの関わりをロードは静かに見守る。アーティストを中心にこの三人の役割はとても明確だ。ジャコメッティは彼らの中心にいながら、まるで面倒が起こるよう仕掛けているようだ。

創作の合間、ジャコメッティはロードを誘って息抜きにでかける。1964年のパリ。こうした場面もなんとも魅力的だ。カフェに向かう湿った石畳の狭い路地や、枯れ木の墓地(公園)を歩く二人の後ろ姿。憂いを含んだ空気に溶け込む二人の姿は本当に絵になるのだ。気の利いたジャズやシャンソンに彩られた芸術とAmour(愛)の都は、多くが望んでいるステレオタイプのパリとして描かれている。

それぞれのカットが素人のドキュメンタリーのカメラワークのようにぎこちなく切り替わる映像は、その場に漂う空気や匂いを纏いつつ絵画的な陰影のなかに見る者も引き込まれて、自らその場を見ているような臨場感がある。

たびたび滞りと描き直しを繰り返した作品は、ロードの果敢な介入とディエゴの助けで、意外な完結を遂げる。そして作品はアメリカのエキシビションへと旅経ち、ロードもやっと帰国の途についたところで映画は終わる。

シンプルと言えば、とてもシンプルな映画。しかしながら必ずしも多くない会話が象徴的によくきいていて、脚本もよくできていると感心。それとすべての配役が適役だった。

ジャコメッティを演じるのは『シャイン』のジェフリー・ラッシュ(Geoffrey Rush)、弟のディエゴ役は『モンク』のトニー・シャルーブ(Tony Shalhoub)。この二人の俳優は文句なく素晴らしいのですが、二人の女優を含む全ての俳優が適役と呼べる配置。

監督・脚本は、いつも味のある脇の演技を見せるスタンリー・トゥッチ(Stanley Tucci)。この作品をまとめ上げたトゥッチにBravo!を贈りたい。