クールベのタチアオイ

ボストン美術館の中央玄関から入ってまっすぐ進むと両面ガラス張りの総合案内がある。入館者が情報を得たり、待ち合わせやソファで一休みするといった場所だ。人の動きやガラスの反射で気づきにくいのだが、そこの壁面にも絵画が展示されているのだ。

その中の一作に、グスタフ・クールベ (Gustave Courbet, 1817- 1877)の《銅鉢のタチアオイ》がある。

Gustave Courbet Hollyhocks in a Copper Bowl, 1872
MFA: 48.530

不透明な色使いと大きな筆触が花びらに重量を与えて造花のようにみえる。それに何の花か。

タイトルによれば描かれているのはタチアオイ。ひとの身長ほどに高くまっすぐ伸びた茎のまわりにハイビスカスに似た色鮮やかな花をたくさんつける植物だ。夏の田園風景によく見かけるが、個人的には花の美しさよりも、その毛羽だった強そうな茎の直立した様子が印象にのこっている。

ここではそのタチアオイ特有の立ち姿は描かれていない。短く切って活けた花は、それぞれにどこか寂しげだ。

MFAによれば、この作品はクールベが投獄されていた時期に花から描き始め、その後銅製の花器を描き加えたようだ。

1871年パリ・コミューンに参加しヴァンドーム広場のコラム(記念柱)を引き倒す動きを先導したことでクールベが収監された。その間、妹に画材や花、書籍などを差し入れてもらい獄中で描いていたという。

ロマン主義やアカデミズムとは相容れず、写実主義もって我が道を貫いたクールベ。実家の経済力も手伝ってか当時主流だった公募展に反して個展を開いたり、有力者からの依頼を断るなど、その大胆な言動はよく知られていたようだ。パリ・コミューンのコラム事件では、収監のうえにコラム損壊の賠償ももとめられ、釈放後スイスに亡命して1877年に亡くなった。

嘗てパリ一番の横柄な男、暴れん坊と浮名を流した怖いものなしのクールベだったが、その影は見えない作品だ。収監に至ってはそれまでのような自由奔放は許されず、生まれて初めて生きる厳しさを感じていたのかもしれない。

花は開いて朽ちてはいない。が、生死がわからないまま闇の中に吸い込まれていくようだ。

1872年といえばクロード・モネの《印象・日の出》が発表され、「印象派・印象主義」誕生の年でもある。写実主義の先導者としてレアリズムを追求しながら力強い筆触分割をみせて印象主義の誕生にも影響を与えたことはこの作品からも見て取れる。

パリから遠く離れた失意のクールベは、この印象派の幕開けを知っていたのだろうか。

参考サイト
Gustave Courbet 《Hollyhocks in a Copper Bowl》(1872)
https://collections.mfa.org/objects/33259/hollyhocks-in-a-copper-bowl?ctx=f4c904ee-ba09-4769-88c7-38755b55db80&idx=0

デビッド・ホックニー展

10月の東京、清澄白河の東京都現代美術館でDavid Hockney展が行われていた。
ホックニーは現役で多作なアーティストなので個々の作品を見かける機会はたびたびあるが、今回初めて活動初期の作品から近作までほぼ時系列で見ることができた。

デビッド・ホックニー展 会場ロビー 東京都現代美術館

まず、以前から好きな《 スプリンクラー 》(1967)。草木を愛するイギリス人のホックニーが、移住先のカリフォルニアで見た人工的に生かされる自然の風景を描いたもの。霧状の水を噴き上げるスプリンクラーをみると未だにアラジンの魔法のランプを思い出す。平屋建てでみずみずしい芝生が見える大きな一枚ガラスの窓の家。芝にまかれた水は乾燥と高温ですぐさま蒸発…10代の夏サンフランシスコ郊外で見かけた風景が蘇る。水とホースの曲線以外は直線ばかり。吹き上がる水の心許ない線が非現実的でリアルだ。
建物は少しだけエドワード・ホッパーを思い出させる。水と言えば《リトグラフの水》(1978−80)の連作も面白い。

パブロ・ピカソに捧げられた作品も多かった。ピカソ作品の多彩さにホックニーの求めた自由を見いだしたのだろうか。ピカソの感覚をたどるように描きながら、洞察し、共感し、同調してインスピレーションを得た作品が多く展示されていた。自らを画学生やモデルとしてピカソと対峙させる。その存在を鑑としているのか。ピカソに対する強い敬愛や親近感、対話欲求も鮮明に描かれ、さながらピカソ作品への返歌のようだ。そうした憧れからか、ピカソが晩年信頼した刷師にホックニーもたどり着いている。

近年のホックニーと言えば、ポートレートを見かけることが多かった。70年代のダブル・ポートレート、特に《クラーク夫妻とパーシー》や《両親》は印象強く今回も楽しみにしてきた。ファッショナブルでクールなクラーク夫妻がどこかクラシックな香りのするモダン演出で描かれている印象を持っていた。だが今回はふたりの関係性が前面に出ているような印象が加わった。ホックニーの両親は、どうしても中心に据えられた鑑がヤン・ファン・エイクの《アルノルフィーニ夫妻の肖像》が浮かんで、そちらに目が行ってしまう。しかし鏡の中、上部に描かれているのはピエロ・デッラ・フランチェスカのキリストの洗礼のようだ。なぜ洗礼?下の緑色のカーテンもルネッサンス作品のどこかで見たような気がする。なぜここに鑑があり、そこに写っているのは遠い15世紀あたりの絵画なのか。
最近のポートレートはリトグラフが多いようだ。そしてこの美術館はリトグラフ作品を多く所蔵している。

この展覧会では風景画も多く展示されているが、そのほとんどが巨大画面である。
壁一面を覆う《春の到来 イースト・ヨークシャー、ウォルドゲート 2011年》は32枚のカンヴァスに油彩で描かれたもので総面積は365.6 x 975.2cm。一作品にこれほど多くのカンヴァスを使っているのを初めて見た。しかしこの後50枚継ぎの油彩を見ることになるのだが。

《春の到来 イースト・ヨークシャー、ウォルドゲート 2011年》(2011) *撮影許可あり

木立の中心にある小道のフクシャっぽい色が作品後ろの壁面にも塗られ、その色がフローリングにも映っている。鑑賞者を森に誘っているようだ。実際、この日は小学生の団体が見学に来ていたが、帽子をかぶって活発に動く姿と相まって、そこが遠足の風景のように感じられた。

《春の到来 イースト・ヨークシャー、ウォルドゲート 2011年》(2011)

鮮やかな配色と平面的な彩色で一見ナイーヴな筆致が、なおさらに春の到来の喜びを感じさせる。自然のサイクルの中で伸びやかに生き生きと枝葉を広げる草木。人も森も自然の恩恵なしには生きられないのだ。
ホックニーの風景画は、鑑賞者をその中に招き入れてくれる。多くの風景画では鑑賞者は絵画の外に置かれて、その風景との関係性で思い入れの有無はあっても、決められた視点にいることを強いられている気がする。制作者が鑑賞者の存在を考えないからかもしれない。ホックニーは鑑賞者を意識して創作している気がする。

ホックニーは風景画を手がける中で遠近法についても独自の方法を探った。東洋の絵巻などの研究によって得た手法を用い、視点を固定せず複数方向からの視点を画面上に構成している。私たちには馴染みがあるが、西洋の伝統的な技法ではたしかに視点は固定されている。新たな手法に至る過程ではピカソのキュビズム作品なども影響したようだ。80年代のホテル・アカトランシリーズでは逆遠近法の試みをハッキリと見ることができる。
そしてCovid19のロックダウン中に描いた作品が《ノルマンディーの12ヶ月 2020-2021年》。複数のiPadで制作されプリントされたという100x9000 cmの巨大絵巻だ。こうなると鑑賞者もノルマンディーの12ヶ月を散策することになる。

ホックニーの長い作品歴を辿ると様々な技法を活用していることがわかる。特に社会全体がデジタル化された近年はiPadの発表と共に支持体として迎え、作品をアニメーション化したりインクジェットプリントしたりしている。尽きない好奇心と実行力は常に現代アートの最前線を生き抜くアーティストたるゆえんだろう。図らずもポップアート作家に括られてしまうのは、カラフルな彩色(ブリティッシュのDNAか)や一見親しみやすい表現の他に、時代のハイテクをためらわず取り入れる身軽さのせいもあるのかもしれない。

世界中が鬱々と過ごした時期を共に経験し寄り添ったホックニーが春の訪れを告げにやって展覧会。理屈抜きで楽しかった。そう思えるのは作品の特徴を生かしながら観客の側に立った展示方法がとられていたからだろう。大きな作品は観客を抱擁する魅力がある。それも含め、それぞれの作品との距離感も心地よく、散歩がてらの鑑賞という気軽さが多くの観客が集めたのだろう。

ちなみに冒頭に展示されているエッチングとアクアティントで水仙を描いた《花瓶と花》。できることなら人生を共にしたいとずっと思い続けている。

ヴィッラ・ロマーナ・デル・カサーレ

イタリア・シチリアの第二の都市カターニアから車で約1時間半のピアッツァ・アルメリーナという地で発見された古代ローマ時代の有力者の別荘が、ヴィッラ・ロマーナ・デル・カサーレ (Villa Romana del Casare)だ。1997年世界遺産に指定されている。気温35度の炎天下、意を決して訪ねてみた。

四方の海から十分に内陸に入ったこの土地は、古代ローマの大土地所有制ラティフンディウム(latifunduim)と関連した別荘として非常に高い地位の有力者が所有していたと言われている。古くは1世紀から素朴な邸宅があったようだ。ここが最も発展した4世紀の建造物の下に紀元後1世紀までに作られた壁の残骸が発見されたことでこれが証明された。現在残るものは361年から363年の地震の後に増築されたものとされている。

浴場の外側にあるボイラー

4世紀は大広間をはじめとする各部屋や廊下などに豪奢な装飾が施されるなど、全体として非常にで充実を見せた時期だという。5〜8世紀には古い構造の上に田舎の集落が建てられた。その後も様々に変化しながらも集落として使われていたが、12世紀後半に大規模な崩壊がありこの地は放棄された。14〜16世紀に再び活気を取り戻すも17〜18世紀に頻繁に発生した洪水により水没し忘れ去られた。

床のモザイクを見る見学者

1820年サバティーノ・デル・ムト(Sabatino del Muto)の指導で発掘が行われ遺跡の大部分とモ
ザイクの床が発見された。

最初の発見から採掘や研究が継続されていたが、1900年代半ばになると遺跡保護のプロジェクトも始まり段階的に現在の形が作られたようだ。

来客を迎える玄関から続く回廊



3500㎡の遺跡は現在、全面が屋根で覆われて見学者用の通路は高い位置に作られている。壁のような仕切りはないため歩きながら四方広範囲が見られ、そこから見下ろすモザイク画の大廊下などは圧巻だ。

右は来客用の玄関から続く列柱に囲まれた中庭。内側がモザイクが敷き詰められた回廊となっており中庭の中心には噴水が備えられている。床のデザインは月桂樹の冠を模したメダリオンの中心に動物の頭部が描かれ、4隅には植物や鳥が置かれている。別荘の主人が来客に対して富と権力を誇示する最初のインパクトになっただろう。

浴場に向かう家族

別荘には50を超える部屋があり、床を埋め尽くした豪華なモザイクは、用途にあわせて意匠を凝らした贅沢で洗練された仕事ばかりだ。モザイクのマエストロはアフリカから呼び寄せられたと言う。北アフリカ、エジプトあたりとの国交だろうか。
左の画像は浴室前の脱衣所。女主人と香油や入浴用具を持った人々が入浴に向かう様子が描かれている。

主寝室
十人娘の間




他の部屋も、主寝室にはロマンティックなカップルのモザイク画、キッチン(パントリー)にはフルーツなどの図柄をとりいれるなど、それぞれに細やかな意匠を凝らしている。

「十人娘の間」と呼ばれる部屋には、スポーツを楽しむビキニ姿の少女たち。健康的で活発な少女たちの動きが古さを感じない。しかしよく見ると、例えば右下の少女、プロポーションとポジションのバランスがとれていない。ちなみに左上部角の欠損部分から少女たちのモザイク画の前にあったジオメトリックなデザインのモザイクが見えている。フレスコ画の壁は残念ながら多くは残っていない。
当時の画材と技術の未熟さのせいだろう。水没も経験しているはず。残念だ。

大狩猟(部分)

この廊下が最も有名だろう。
幅5m長さ約66mの細密なモザイクで埋め尽くされた大廊下。これが「Grande Caccia(大狩猟)」
ローマのサーカスで興業に使われる動物(猛獣)を捕らえる狩猟旅行の様子が描かれている。ライオンやトラ、ぞう、珍しいサイや神話上のグリフィン(頭は鷲、翼があるライオンや蛇)などもある。珍鳥や魚の類いもあり、驚べき種類の多さだ。捕らえられた動物は騎士などの監督下で働く人々によって船に積まれていく。まさに壮大な狩猟大航海の物語だ。

大狩猟(部分)

この別荘が、海外からの動物の輸入で財をなした人物が所有した時期があるのではないかと言われるのは、この壮大な大廊下画によるのだろう。こうした美術品があれば主は自慢の大航海物語を披露して話も弾み、来客を飽きさせることはなかっただろう。

大狩猟(部分)魚を捕獲する場面だが不思議な生き物も見える

こうした装飾の芸術性、物語性からは所有者の高い教養と洗練された美意識がうかがわれる。また、別荘内が私的なスペースにとどまらず「Basilica(バジリカ)」もある。古代ローマではこれは集会場・公会堂である。ここでは大理石をふんだんに使うなどこの別荘の中で最も贅沢な材料が使われているそうだ。
こうした豪華な装飾を施した邸内には浴場あり、床暖房有りと当時の最新の設備をふんだんに取り込んでいる。相当高いレベルの支配階級にいた人々が所有していたことは明らかだ。

モザイクに関しては、紀元後まもなくアフリカからモザイク制作者を呼んだとなると、思い浮かぶのはポンペイで発掘されたモザイク画《La battaglia tra Dario e Alessandro(Battaglia di Isso)》だ。エジプト・アレクサンドリアのモザイク師が作ったと言われている。もしやこの別荘もアレキサンドリアから高度な職人を連れてきたのかもしれない。

画題に関しては、動物や自然、音楽やダンス、ゲームやスポーツなど日常生活の様子や神話からとられていて、宗教色が見当たらない。「大狩猟」廊下中心から入る大広間はバジリカというが、現代人が想像する教会の意味ではなく集会場や裁判所のような場所だ。当時は初期キリスト教から中世。これまでラヴェンナとヴェネツィア、パレルモ、ナポリの考古学博物館のポンペイのモザイクをみたことがあるが、宗教的な作品のほうが記憶に残っている。(中でもラヴェンナのサン・ヴィターレが忘れがたい。)
しかしここはラヴェンナに見られるような煌びやかなモザイク宗教画があらわれるビザンチンにも至らない時代だ。こうしたこともあり当時の人々の文化を象徴した別荘になったことは、結果的にはより独特で非常に興味深い。

シチリア全土で今年一番の暑さを観測した日、扇子を駆使し酷暑のなかまわった甲斐があった。当時の客人にどれほどのインパクトと興味をもたらしたかと想像に難くない、見れば見るほど惹きつけられる作品群だった。

参考サイト
Museo Archeologico Nazionale di Napoli 「La battaglia tra Dario e Alessandro」
https://www.mann-napoli.it/mosaici/#gallery-3

Villa Romana del Casale
https://www.villaromanadelcasale.it/villa-romana-del-casale-piazza-armerina/

Unesco Villa Romana del Casale
https://www.unesco.it/it/PatrimonioMondiale/Detail/126

サイ・トゥオンブリ

サイ・トゥオンブリ (Cy Twombly) はアメリカ出身の現代アート作家。

1928年ヴァージニア州に生まれ。ボストン美術館付属美術学校、ノースカロライナ州のブラック・マウンテン・カレッジなどに学びながら1951年にニューヨークで初の個展開く。その後南ヨーロッパや北アフリカを旅し、1957年、イタリアを定住の地とする。そして2011年83歳に生涯を終えるまで、50年以上をローマで過ごした。

現在、ボストン美術館でサイ・トゥオンブリの企画展が行われている。
そこで私が最も長い時間を過ごしたのは《Il Parnaso》。この作品は、ヴァティカン美術館「署名の間」のラファエロ・サンティによる一連のフレスコ画のなかの一作で、同名の作品《Il Parnaso (パルナッソス山)》からインスピレーションを得たとされている。

トゥオンブリは、このラファエロ作品の構成をたどっているので、先にラファエロ作品を見てみよう。

Parnaso (1510-1511) Musei Vaticani

ラファエロは、リラ・ダ・ブラッチョを奏でる芸術の守護神アポロを中心に、ミューズたちや「Carpe diem」で知られるホラティウス、『オデュッセイア』のホメロス、『神曲』のダンテなどラファエロの時代(ルネッサンス)までの著名な詩人たちが集う様子を描いている。

一方、下のトゥオンブリ作品もパルナッソス山に集う神々や文学者などが描かれ、ラファエロ作の登場人物は「Apollo」や「SAPPHO」のように名前やイニシャルなどでしるされているため、それを辿ることで両作品の構成の類似がわかる。また、ラファエロ作品が描かれたルネットの下がドアのために半円にはなっておらず、トゥオンブリ作品の中にもドアを枠取りした部分が作品中央下にラフな線で区別されている。そしてそのなかに彼は、3行に改行しながら「Il Parnaso/Cy Twonbly/1964」とタイトルと署名をしている。

Il Parnaso (1964) Cy Twombly Foundation

この作品を前にした最初のインパクトは、トゥオンブリが作品のなかにいる印象。《Il Parnaso》を描くトゥオンブリは、ヴァティカンのラファエロ作品のパルナッソスの芸術界に身を投じ、一方でキャンバスに向かって、パルナッソスの芸術界にいる自らも含めて描いたように見える。

サイ・トゥオンブリの作品の多くは抽象ながら一見して美しいと感じる。彼のインスピレーションの基本になるものは、学生時代から興味をもっていた古代ギリシャ・ローマの遺産(遺跡・遺品)。MFA付属美術学校時代もMFAに展示された古代の彫像や遺跡の破片をみるために足繁く通っていたことが今回の展覧会の中でも語られている。

そして遺跡や遺品を巡る旅のなかでローマに拠点を得たことによって、彼は自らのインスピレーションの源にドップリと浸かった創作人生をおくることになる。なんと幸せなことか! 古代ギリシャ・ローマ文化、文字ーグラフィティへの関心と、顕著な繰り返しへのこだわりや独自の(わずかな)色の法則などは、見る側にとっては彼のメッセージに触れる大きなヒントとなる。

トゥオンブリが「自らの言語」で語る時、何のためらいもみえない。グラフィティのように、あるいは色や動きで画面上に表現されるものはすべてが彼の一部となって、非常に早いスピードで迷いなくアウトプットされる。作品は既に彼の中で完成されているのだ。そうした彼の創造の跡を辿るうち、彼が作品の一部としてそこに存在しているように感じる。

そして、その勢いと空(無)とのバランスが、明瞭さと美しさを感じさせるのだ。

参考サイト
Cy Twombly, Il Parnaso, 1964
https://www.mfa.org/exhibition/making-past-present-cy-twombly

Raffaello Sanzio, Il Parnaso
https://www.museivaticani.va/content/museivaticani/it/collezioni/musei/stanze-di-raffaello/stanza-della-segnatura/parnaso.html

長登とファン・ゴッホとジャポニスム

ウェブ検索によれば、貞斉泉晁作の錦絵《尾張屋内長登》は2つの美術館で所蔵が確認できる。ボストン美術館に2点、もう1点はアムステルダムのファン・ゴッホ美術館。

ファン・ゴッホ美術館(以下VGM)はフィンセント・ファン・ゴッホ作品の展示公開を目的に1973年に開館した。1890年の画家フィンセントの死後、彼の作品などは弟のテオ、その妻を経て夫妻の息子フィンセント・ウィリアム・ファン・ゴッホ(伯父と同名)に相続されていた。作品をまとまった形で保管・公開したいというこの甥フィンセントの意思によりファン・ゴッホ美術館財団が設立され、オランダ政府が出資して美術館が建設された。ファン・ゴッホ作品のほか交流のあったポール・ゴーガンやトゥールーズ=ロートレック、彼が好んで模写をしていたバルビゾン派のミレーの作品なども所蔵する。ちなみに今年2023年、同館は50周年を迎えるとのこと。

VGMによれば、彼が1886−87年に購入した660点の浮世絵版画のうち、少なくとも512点が美術館に所蔵されているという。そして《尾張屋内長登》もフィンセントが収集した浮世絵版画の1つだったのだ。

Van Gogh Museum (公式サイトより)

1886年フィンセントはパリのアートディーラーのマネージャーとして働くの弟テオ宅に居候を始める。このころフィンセントは、通っていた画家フェルナン・コルモン(Fernand Cormon, 1845–1924)の画塾やテオを通して、モネやトゥールーズ=ロートレックなどの印象派の画家たちと出会う。そしてファン・ゴッホ兄弟は、1870年から浮世絵版画と工芸の店を経営していたジークフリート・ビングから浮世絵版画を買い始めるのだ。

同年の5月に刊行された雑誌『パリ・イリュストレ』の日本特集はシャルル・ジロが編集長を務め(馬淵,2011)、林忠正の論考や歌麿、春栄、豊国、北斎の図版が掲載された。これもフィンセントに多大な影響を与えたといわれている(神津,2017)。ビングについては以前ベルト・モリゾ関連で触れたが、もう少し先の1888年5月に『芸術の日本』を創刊している。1891年4月まで続いた月刊誌でフランス語、英語、ドイツ語の3カ国語で出版された。各号の表紙は絵画や浮世絵がカラー印刷され、論文1本と10点の色刷り複製版画が含まれたものだった(吉田,2014)。こうした質の高い出版物の数々からも、当時のジャポニスムの潮流の大きさがうかがえる。

フィンセント・ファン・ゴッホの作風は1886年以降、著しい変化が見られる。パリで出会った印象派や浮世絵に触発されたことはいうまでもない。そのうえこの1886−87年は、絵の具の質が大きく向上した時期でもあった(秋田,2019)。つまり、土由来のくすんだ色から鮮やかな色彩表現が可能になったことは「日本のような明るさ」を描こうと鮮やかな色を必要としたファン・ゴッホにとって、とても幸運なことだったのだ。

こうして描かれたフィンセントの浮世絵版画と日本への熱狂は、色彩豊かな作品によって今や誰もが知るところ。浮世絵から受けた豊かな色と明るい印象を日本そのものに重ね、地中海性気候の南フランス・アルルを日本に見立てて引っ越したのはそれから約2年後のことだ。

フィンセント・ファン・ゴッホは彼にとって異文化そのものだった浮世絵版画を自らの技術とアイディアに昇華し、独特のスタイルを確立した。独創的な解釈、彩度の高い絵の具使いや大胆な筆致で描かれた晩年の作品が国境を越えて多くの人々を魅了するのは、それらの作品の一つ一つに「庶民の芸術」と呼ばれた浮世絵版画の魂が受け継がれたからなのかもしれない。

参考文献
秋田麻早子 2019「絵を見る技術ー名画の構造を読み解く」朝日出版社
神津有希編 2017「北斎の受容およびジャポニスム関連年表」『北斎とジャポニスム HOKUSAIが西洋に与えた衝撃』国立西洋美術館 読売新聞東京本社 pp.314-323
吉田典子 2014「ベルト・モリゾと日本美術(2):麦わら帽子の少女における浮世絵の画中画について」『Stella』33, pp.213-236.  Société de Langue et Littérature Françaises de l’Université du Kyushu

参考サイト
馬淵明子『フランス人コレクターの日本美術品売立目録』紹介サイト
https://www.aplink.co.jp/synapse/4-86166-059-7.html

「Van Gogh Collects: Japanese Prints」Van Gogh Museum
https://www.vangoghmuseum.nl/en/japanese-prints

「Biography, 1886 – 1888 From Dark to Light」Van Gogh Museum
https://www.vangoghmuseum.nl/en/art-and-stories/vincents-life-1853-1890/from-dark-to-light

アルテミジア・ジェンティレスキ

17世紀のイタリア人画家アルデミジア・ジェンティレスキ(Artemisia Gentileschi)の作品がボストン美術館(MFA)のロトンダに現れた。

The Sleeping Christ Child(1630-32)Artemisia Gentileschi
MFA accession numb
er:2022.102

《眠る幼子キリスト》。12.4 × 17.5 cm の銅板に油彩で描かれている。絵はがきサイズだ。クッションに頭を預けて無防備にあどけなく深い眠りの中にいる幼子イエス。なんともいえない愛おしい姿である。この稀に見る珠玉の小品を初めて見かけたときには、うれしさのあまり自分のほおが緩むのを抑えきれなかった。

以前この作品がオークションに出るという記事を見たことがあった。そのときはこの作品を元に制作された別の作家によるエングレービング作品《死の寓意》が添えてあった。版画の方は幼子のそばに頭蓋骨が置かれ、天使のように美しく幼い子どもにも何れ死は訪れるという、いわゆるメメント・モリをテーマにした作品だ。

Allegory on Death (制作年不明)  Jode II, P. de (1601-1674).
Engraving after Artemisia Gentileschi

版画は量産可能であるから人の目に触れる機会も多い。それでこちらが先に有名になったらしい。元となったジェンティレスキ作の幼子キリストは頭蓋骨を伴っておらず、眠る幼子の姿は生き生きとして、小さな胸の動きや静かな呼吸が聞こえてきそうだ。

まだ女性画家が少なかった時代、画家オラツィオ・ジェンティレスキ(Orazio Gentileschi)の娘として生まれたアルテミジアは絵の天分とそれを家庭内で磨く幸運を得た。父親がカラヴァッジョと親しかったため、その技法を間近で学んだという点で、後に連なるカラヴァッジョに私淑したカラヴァッジョ派とは異なる。彼女の作品の明暗対比の強いテネブリズムやドラマティックで躍動感あふれるな画面構成などにその特徴は明確に現れている。

当時の創作現場はほぼ完全に男社会であり、とりわけカラヴァッジョの素行の悪さは有名だが、当時はそういうタイプの画家は少なくなかったようで、カラヴァッジョと親しかった父親周辺も悪評高い人間が取り巻いていたらしい。そんな中で娘である17歳のアルテミジア自身もセクハラの被害者となりレイプ裁判を起こしたことから、本業以外でも後世まで名が知れることになる。それでも彼女は描き続け画家としてのキャリアを高めていく。創作作業というのは何につけ重労働が多い。ロンドンでは父オラツィオの制作を引き継ぐ形とはいえ直径5メートル近くの天井画(キャンバスに油彩したのち板張り)などにも取り組んでいる。

アルテミジアの自画像を見ていると彼女は確かに現実社会に存在し、自己主張し、閉鎖的で理不尽な社会の壁を打ち破るべく戦った女性だと感じる。例えば、時代はかなり進むが18世紀にフランスに現れる女性画家ヴィジェ=ルブラン。マリー・アントワネットのお気に入りとなり爛熟のロココを強かに生きたようだが、嫋やかでファッショナブルな浮世離れした自画像をみると時代と文化環境の違いは大きいが、ここまで時代が経過しても女性画家は僅かだったのだ。

アルテミジアの作品は、テーマや画面構成、表現の細部に至るまで彼女の意思と肉体の強靱さが作品に憑依しているようで、見る者に強く訴えてくるもののがある。そんな彼女の繊細さと愛情深い眼差しが作り上げた小さな宝石のようなこの一作。
アルテミジア・ジェンティレスキは心身共に強く、そして美しい画家だったに違いない。

参考サイト
Artemisia Gentileschi 1630-32《The Sleeping Christ Child》ボストン美術館
https://collections.mfa.org/objects/699323/the-sleeping-christ-child?ctx=0b6bdc9a-fe6d-4495-b1ce-7fc547bdb0ab&idx=0
Letizia Treves 2016 「Caravaggio: His life and style in three paintings」National Gallery of London https://www.youtube.com/watch?v=1KcdgFxmnb4
Orazio Gentileschi&Artemisia Gentileschi 1635-8 《An Allegory of Peace and the Arts》RCIN 408464, Royal Collection Trust
https://www.rct.uk/collection/408464/an-allegory-of-peace-and-the-arts
La Gazette Drouot: Jode II, P. de (1601-1674). Allegory on Death
https://www.gazette-drouot.com/en/lots/13709170-jode-ii-p.-de-1601-1674

ヤン・ファン・エイク風の水浴画

今回の作品は《Woman at Her Toilet》
ハーバード/フォッグ美術館2階、13−17世紀ヨーロピアンアートの展示室で観ることができる。

Woman at Her Toilet(16c初期)

一瞬にヤン・ファン・エイクの《アルノルフィーニ夫妻の肖像》を思い出した。もちろん細密画の頂点にいたヤン・ファン・エイクのそれとは全く異なる。
それでも興味を引かれた。

正面奥に消失点をとる部屋の幅と奥行きが『アルノルフィーニ夫妻の肖像』の部屋によく似た印象を与える。窓の位置や大きさ、女性たちの立ち位置、画面左手前にサンダルが一足あるのも似ている。室内は簡素。天井高の窓からの外光をうける2人は、窓枠にかけられた凸面鏡に写っている。裸の女性は凸面鏡の下に置かれた水を張った洗面器に右手を伸ばしている。手に握られているものを水で濡らして体を拭いていたのかもしれない。隣の着衣の女性は彼女に仕えるメイドのよう。手には球状のものが握られている。凸面鏡の下、出窓の床板にも同じようなもの球状のものが見える。そういえば《アルノルフィーニ夫妻の肖像》でも窓の下に数個のオレンジが置かれている。女性たちのプロポーションや衣装、部屋の雰囲気もフランドル派の特徴がみられる。

Portrait of Giovanni(?) Arnolfini and his Wife(1434)
National Gallery, LondonNG186)

作品に添えられたキャプションをたどってみよう。
タイトルは《Woman at Her Toilet》。トイレットは用を足す場所のイメージが強いが、バスルーム、洗面所、化粧室を兼ね備えた身支度をする場所、または少し古い言い方では身支度そのものも意味する。今回の作品の場面の女性は裸なので水浴の場面だろう。
画家名は未確認。生没年の欄に「フランドル派 c. 1390-1441」と、ヤン・ファン・エイクの生没年代(といわれる)が記載され、制作年は16世紀初頭とある。そして、ヤン・ファン・エイクの時代に水浴の場面がよく描かれとのこと。作品はその時代の作品を元に、16世紀初頭にコピーされたものだそう。寓意や道徳的な意味あいで制作され、識者の見解としてバテシバやイヴ、ヴィーナスのほか、ルクスリアやヴァニタスなどが描かれた可能性が指摘されている。

バテシバは旧約聖書サムエル記に登場する女性でまさに水浴中にダヴィデ王に見初められ、後に彼の妻となった。ヴァニタス(空虚)は旧約聖書の伝道の書(コヘレトの言葉)で語られるもので、メント・モリ(死を覚えよ)やホラティウスのカルペ・ディエム(その日を摘め)とともにたびたび画題とされる。骸骨・若者(若い女性も)・砂時計・切り花や果実など朽ちていく命に限りがあるものが描かれる。ちなみに伝道の書はダヴィデ王とバテシバの子ソロモン王(コヘレト)の著書といわれている。ルクスリア(性欲)は7つの大罪の一つ。そして創世記のイヴは誘惑や罪、ローマ神話のヴィーナス(ギリシャ神話のアフロディーテ)は愛と豊穣の女神などは最もポピュラーな画題といえる。

女性のヌードは古代ギリシャの時代から西洋芸術の主題として非常に多くの作品が残されている。ただどのような女性でも主題にできたわけではなく、寓意や道徳、宗教の教えを表現するという目的で、神話の女神や旧約聖書で語られるバテシバ、イヴ、ヴィーナスなどの女性像が使われてきた。神話や宗教、歴史など過去の出来事に主題を見いだす古典主義の時代は長く続き、そうした伝統的な絵画作法から解放されるのは、1800年頃に制作されたゴヤ作《裸のマハ》あたりからだろう。

さて14世紀終わりから15世紀半ばのフランドル派に由来するこの作品。この絵は何を表現しているのか。キャプションで述べられているようにとても謎めいた魅力がある。
メイドの持つ球体も気になります。アルノルフィーニ夫妻の富を象徴するオレンジに変わるものかもしれない。ちょうどリンゴくらいの大きさで真鍮色のような感じに見える。窓際の球体にはヘタがついているようにも見える。もし青リンゴだとしたら原罪でイヴも考えられる。アフロディーテの黄金の林檎(不和の林檎)の可能性は球体が2個という点で違う気がする。脱ぎ捨てた一足のサンダル。アルノルフィーニ夫妻は神聖な誓いの場として神の前でサンダルを脱いだ(出エジプト記3−5)と想像するが、この女性の場合はどうだろう。
画像で見ると部屋の奥の家具に何か置かれている。凸面鏡に写る2人の女性もはっきりしない。

謎めいている。

<参考サイト>
《Woman at Her Toilet》Harverd/Fogg Art Museum
https://harvardartmuseums.org/collections/object/227899?position=1

Jan van Eyck 1434《The Arnolfini Portrait》National Gallery, London
https://www.nationalgallery.org.uk/paintings/jan-van-eyck-the-arnolfini-portrait

旧約聖書 サムエル記下11
https://www.bible.com/ja/bible/1819/2SA.11.新共同訳
旧約聖書 コヘレトの言葉1
https://www.bible.com/ja/bible/1819/ECC.1.新共同訳
旧約聖書 出エジプト記3
https://www.bible.com/ja/bible/1819/EXO.3.新共同訳

ピエロ・デッラ・フランチェスカの《キリスト生誕》2/2

ロンドンのナショナル・ギャラリー(以下NGL)の修復家による3年の作業を終えて公開された作品。修復したて特有のニートな印象に加えて、乳白色の釉薬でコーティングされているような、修復前に比べて絵画の精気が抑制されたというか、画面がフリーズしているような感じ。

The Nativity (early 1480s ) 修復後 
National Gallery, London(NG908)

多くの修復工程の中でとりわけNGLが熱狂を持って発表したのは「聖なる光の存在」。
朽ちかけた厩の屋根に一部草が生えているように見える部分がある。その下には腕を上げる羊飼い。そのちょうど頭の上の石積みの壁がぼんやりと白っぽく見える。キリストの生誕を告げる聖なる光が、屋根の穴を通って壁を照らしたために白くなったとのこと。羊飼いは光を指さし、ロバも光を見上げて嘶くように描かれている。

このことは作品の未完説にも関連している。人物に影がないことで未完と考える根拠とする専門家もいるからだ。NGLはピエロが聖なる光の存在を際立たせるために意図的に影をつけなかったという解釈をとり、この作品を完成作と結論づけた。

The Nativity(修復前・部分)
Maurizio Calvesi 1998「Piero della Francesca」

さて次は2人の羊飼い。
修復前に最もダメージを受けていたのが2人の頭部だった。右の図は修復前のもので確かに損傷は明らかだがデザインは残っているように見える。これを元に今回の修復では頭部がはっきり描かれている。赤褐色の肌の色については、羊飼いは戸外の労働による日焼け、そして白い肌の聖なる人々(聖母子や天使)とのちがいを表すためという見方もある。修復に関しては、ピエロのデザインをたどって細心の注意を払いながら作業したことを修復家自身が語った動画も公開されている。
たしかにこの2人は修復後の画面の中で特に異彩を放っている。他の部分と比較してスフマートがあまり使われず平面的にもみえる。

修復後に話題の中心となったのはまさにこの羊飼い。イギリスのThe Guardian誌は、2012年にスペイン・ボルハで起きた素人の修復により損害を受けた《この人を見よ》を引き合いに出し、今回の修復に対し辛辣な批判繰り広げた。挑発的な内容が興味をひいたのか、その直後からこの記事を引用した記事が多く出回った。

ソーシャルメディアのNGLへのコメントを見ると、一般の修復への評価は一様ではない。批判記事に同意する人もいれば、素晴らしい修復と称賛する声もある。

ところで現在のヨーロッパの修復法は、作家が完成したであろうところまで戻すことを第一義として、もし加筆が加えられる場合は修復で加筆したとわかるように行うという決まりがある。例えば、ダ・ヴィンチ作と取り沙汰されながら未だ謎に包まれたままの《サルバトール・ムンディ》も損傷が激しい作品がアメリカの著名修復家ダイアン・モデスティーニによる古さを感じないほどの加筆によって、どこまでがオリジナルかわかりにくい状態になった。そして高額売買後の真偽不詳のまま今や公開されてすらいない。

修復法やそれを踏まえた修復家の加筆の裁量は素人にはわからない部分。
羊飼いの話題に戻すと、修復によってより平面的に塗ったという印象の顔など、コンピュータの画面上で見ているだけの私だが、正直違和感はある。最初に述べたように作品全体の印象が変わったという点は、クリーニング後というレヴェルのことなのか私にはわからない。そしてこの作品が本当に完成作か否かという疑問もやはり拭えない。今回の修復が修復家の仕事として最大限正しかったのかもしれない。修復家の考える修復と私を含めた一般の人々の期待するそれは同じではないだろう。修復はその役割の性質上、必ずしも鑑賞者の想像通りには仕上がらないということを私たちは留意しなければいけない。

この修復への賛否をいえるほどの材料を私自身持ち合わせない。ただ、修復という仕事は、芸術作品を可能な限り長く後世まで伝えられるよう手助けするということだろうと理解している。つまり作家に成り代わることが仕事ではない。たとえどれほど深い研究と考察のうえにどんなに高度な技術でオリジナルデザインをたどっても、それを制作した人間が表現した魂まで再現することは誰にもできないのだから。

<参考文献>
Maurizio Calvesi 1998「Piero della Francesca」Rizzoli International Publications,In

<参考サイト>
Piero della Francesca 《Nativity》National Gallery, London
https://www.nationalgallery.org.uk/paintings/piero-della-francesca-the-nativity

Jonathan Jones
https://www.theguardian.com/artanddesign/2022/dec/17/national-gallery-botched-restoration-nativity

ピエロ・デッラ・フランチェスカの《キリスト生誕》1/2

2022年12月ロンドンのナショナル・ギャラリー(以下NGL)で、修復を終えたピエロ・デッラ・フランチェスカの《キリスト生誕》が再公開された。現在、世界中の美術ファンの注目を浴びている。この注目の原因を探る前に、今回はこの作品のNGLに至る来歴を確認してみよう。

最初に作品の概略。テーマはキリスト誕生の場面、幼子キリストと聖母マリアと夫のヨゼフ、音楽を奏でる天使、羊飼いに牛とロバという、伝統的な降誕の様式に則ったものだ。背景には画家の出身地サンセポルクロの風景が描かれた。

The Nativity (1470–75) Piero della Francesca(修復前)
National Gallery, London 所蔵 *Wikipediaより

ピエロ・デッラ・フランチェスカはルネッサンス期1400年代のイタリア・トスカーナ出身の画家。生没年に諸説あるが、NGLのサイトでは 「about 1415/20 – 1492」と記載されている。

この作品の制作年もまた、多くの仮説がある。最も古い制作年として1470年、あたらしいものでは1480年代と、10年以上のばらつきがある。
左はWikipediaから引用した画像(修復前)でキャプションの制作年は「1470-75」となっている。今回は画像と一緒にその通り使用した。
NGLの現在のキャプションでは 「1480年代初期」と表記されている。
作品はピエロの地元サンセポルクロで描かれ没後も地元の親族宅にあった。1500年代の画家・美術史家のジョルジョ・ヴァザーリは実際にそこを訪問して作品を確認した記録が残っている。

この作品に動きが見えるのは制作から約300年を経過した1826年。相続人の一人であるジュゼッペ・マリーニ・フランチェスキが、この作品をフィレンツェのウフィッツィに売買のために預けている。NGLも「1825年まで地元の親族宅に作品があった」とするところからも、マリーニ・フランチェスキが初めてこの作品を移動させたと思われる。

1826年にはマリーニ・フランチェスキがウフィッツィのディレクター宛てに 「作品が経年劣化とそれまでの相続人の粗雑な扱いのために相当のダメージを受けている」という内容の書簡を送っている。ダメージのなかには加筆や蝋燭のあともあったとする研究者もいる。売り出す前提でウフィツィに預けたことからも、ウフィッツィにクリーニングも依頼した可能性も指摘されている。

このようにダメージのほかに欠損も目立つこの作品は「そもそも未完成作説」と、1800年代の強烈な「クリーニングによってダメージを受けた完成作」という説が存在する。

実際このクリーニング作業がウフィッツィ(フィレンツェ)で行われたとすれば、ルネッサンス期の作品に最も経験がある地で行われたということになる。それでもなお、クリーニングによる二次被害を被ったとなると、作品解釈、技術、薬品などいずれをとってもいつの時代においても修復という仕事は相当に難しいものなのだろう。

こうした作品の本質に関わる問題がありながらも1861年、この作品がNGLの初代館長の目にとまる。しかしこの時点では他のコレクターが購入しイギリスに持ち込んで修復する。1874年に晴れてNGLが購入したあと、1884年に同館としての最初の修復を行う。このあと1949ー1950年にも修復が行われ、3度目となった今回の修復を終えたNGLは、この作品が完成作品であると発表した。

次回はこの作品の修復後を見ながら話題の原因を探ってみる。

<参考文献>
Maurizio Calvesi 1998「Piero della Francesca」Rizzoli International Publications,In

<参考サイト>
Piero della Francesca《The Nativity》
https://en.wikipedia.org/wiki/The_Nativity_(Piero_della_Francesca)
(画像, 2022/12/20閲覧)

ベルト・モリゾ

ベルト・モリゾといえばエドゥアール・マネが彼女をモデルに描いた《すみれの花束をつけたベルト・モリゾ》(1873)で知られる。しかしモリゾ自身も印象派の画家であり、近年はジャポニスムに影響を受けた画家の一人として研究が進んでいる。

さて、ベルト・モリゾの《髪を結ぶ少女》。モリゾは日常的な風景や家族間の親密な場面を捉えることが得意だった。この作品も、そんなモリゾの家庭的で穏やかな視線が感じられる。どこを見るともない少女の眼差し。慣れた手つき。彼女の意識は指先は集中しているようだ。

この作品は2017年に東京国立西洋美術館で開催された「北斎とジャポニスム展」において、北斎の『絵本庭訓往来』とともに取り上げられた。

Young Girl braiding her Hair(ca1893) Berthe Morisot
Ny Carlsberg Glyptotek, Danmark

次は北斎の『絵本庭訓往来』。モリゾの《髪を結ぶ少女》に影響を与えた作品とされる。
3人の女性が歯を磨いたり、体を拭き清めたり、髪を櫛で整えたりという女性の身繕いの様子が描かれている。『絵本庭訓往来』は初等教育のための今で言えばテキスト、衛生に関する基本的な習慣を取り上げているのだろう。

絵本庭訓往来 初編(1828)北斎 永楽屋東四郎版
ARC古典籍ポータルデータベース:#Ebi0912

この絵本、日常に観察眼を向けていたモリゾにとっては親しみが持てるテーマで、インスピレーションを掻き立てそうな風景だ。とはいえ、絵本庭訓往来の北斎もモリゾも、どこの国でも見られそうな普遍的な生活の場面を題材として扱ったわけで、この点だけをとって北斎作品からのインスピレーションによるモリゾ作品というのは少し性急な気がしなくもない。

ここで「北斎とジャポニスム展」から離れて、こちらはモリゾの同時期の作品《麦わら帽子の少女》。

Julie Manet with a straw hat*(1892)
www.wikiart.org

伏し目がちに座る麦わら帽子の少女。その右肩上の画中画が眼をひく。2人の人物。2人は水面に浮かぶ小舟の上に立っているように見える。前方の1人は胸元をV字に整えた青色の丈の長い衣装を身につけ、ウエストあたりを同系色の帯のようなもので止めている。印象派特有の筆触がよくみえるタッチでも東洋の雰囲気は見逃せない。そして浮世絵の夏の風物詩、隅田川の船遊び思い出す。青い衣装の人物が、上半身を捻りながら向きを変えているようなポーズもいかにも浮世絵風にみえるのだ。

この画中画に関しては現在のところ、2つの浮世絵版画の影響の可能性が指摘されている。
1作目は、鳥居清長の3枚続き《真崎の渡し舟(隅田川の渡し舟)》のうちの真ん中の作品で、女性2人と舳先が描かれた一枚。

A Ferry on the Sumida River 真崎の渡し舟(1787)鳥居清長
MFA Accession Number: 11.13875, 11.13902, 57.585

もう1作が日本では《大川端夕涼》と呼ばれる下の作品。同じタイトルで清長作もあるのだが、こちらは喜多川歌麿の作品。この場合もやはり真ん中の一枚がモリゾとの関わりを指摘されている。

Enjoying the Evening Cool Along the Sumida River( c. 1797–98)Kitagawa Utamaro
The Cleveland Museum of Art, The Fanny Tewksbury King Collection 1956.753

モリゾの画中画は2人とも船上の立ち姿。しかし清長の渡し舟の方は1人は舟に座っている。一方この歌麿作の方は2人とも立ち姿でしかも川縁を歩いているようだ。さらに、中心の女性は子供の手を引いているから登場人物が一人多い。しかし2人の女性の身体の向きがモリゾのそれとよく似ている。強いて言えば着物の色も、モリゾ作の後方の女性の着物が歌麿作の右側の女性の(経年褪色の可能性はあるが)それに近いようにもみえる。

モリゾ画中画で前に立つ女性に関しては、3作品いずれの女性も、体の向く方向に対して顔は反対側を向いている。この点は3作品に共通で美人画によく見られるポーズだ。
清長の女性など少し腰を屈めながらもやはり体と顔の方向は異なってる。歌麿作の女性は、肩を後ろにひいた反動で少し胸部を張った姿勢に上半身のひねりが加わった反り身と言われるポーズが見られる。これは歌麿女性の特徴と言われる。この点はモリゾ作の青い衣装の女性もよく似て見える。

モリゾは実際にいくつか浮世絵を所有しており、それらは歌麿や清長など美人画であったようだ。当時フランスで日本美術商として知られたジークフリート・ビングが1888年『芸術の日本』という月刊誌の刊行を始めた。そのなかには当時としては高品質印刷の図版も添付されていた。《 真崎の渡し舟》や《大川端夕涼》の3枚続きのうちの左から2枚も添付されていて、モリゾが所有していたと言われる。そして1890年にビングがフランスの国立美術学校で日本版画展を主催した際もモリゾは訪れており、清長の同作品はこの版画展に出品されカタログにも掲載されていた。モリゾはこうした経験から色彩版画にも興味を持ち自らも制作を試みた。

さて《髪を結ぶ少女》に戻ろう。
一心に髪を整える少女の右最上部、開かれた扇がさりげなく描かれている。青の濃淡と竹生のような要や骨の配色から日本の扇の雰囲気が漂う。そして少女の後ろは左約3/4をブラウン系の壁紙のような背景で占めているが、それを縦割りにした1/4の細長いスペースは薄い白っぽい黄土色(砥粉色)が使われている。
そして、《麦わら帽子の少女》においても少女の背景の分割も気になるところだ。

さて、ここまで2つのモリゾ作品と3つの浮世絵を見てきた。
浮世絵のような画中画や扇は、西洋的風景の中にアクセントとして添えられたモリゾの日本趣味とも言える。しかし《髪を結ぶ少女》の縦割りのスペース、《麦わら帽子の少女》の画面分割からは、西洋絵画に日本絵画の画面構成や色使いなど技術的要素を取り入れようとするモリゾの試みが見受けられる。縦長の面は引き伸ばされれば線となり、線の仕事を知らしめた浮世絵にたどり着く。ジャポニスムを研究し実践を試みるなかでモリゾは西洋絵画と異なる「線」の効果を見いだしたのだろう

ベルト・モリゾの作品もジャポニスムの影響を受けた画家として、今後さらに多くの研究が進み、取り上げられると想像している。

*この作品をネット検索すると同一画像の多くが《麦わら帽子のジュリー・マネ》というタイトルになっている。ジュリー・マネとはベルト・モリゾとウジェーヌ・マネ(絵も描いた、エドゥアール・マネの弟)の一人娘。ジュリー・マネについては、母モリゾはじめ多くの印象派画家の肖像画が残されており、それらに見られる彼女の特徴はこの少女とは異なっている。吉田典子氏もこの作品はプロのモデルを使っていることにも言及している。

参考資料
《Young Girl braiding her Hair》Ny Carlsberg Glyptotek(ニイ・カールスベルグ・グリプトテク美術館)https://www.kulturarv.dk/kid/VisVaerk.do?vaerkId=105137
(2022年11月29日閲覧)

《A Ferry on the Sumida River 真崎の渡し舟》Museum of Fine Art Boston
https://collections.mfa.org/objects/682351/a-ferry-on-the-sumida-river?ctx=c143ecdc-69d6-4114-b5d0-5d01d8aaa6ce&idx=15
(2022年11月30日閲覧)

《Julie Manet with a straw hat》(1892)
https://www.wikiart.org/en/berthe-morisot/julie-manet-with-a-straw-hat-1892
(2022年11月25日閲覧)

『Enjoying the Evening Cool Along the Sumida River』 c. 1797–98
The Cleveland Museum of Art, The Fanny Tewksbury King Collection 1956.753

国立西洋美術館 2017「北斎とジャポニスム HOKUSAIが西洋に与えた衝撃」読売新聞東京本社

吉田, 典子 2014「ベルト・モリゾと日本美術(2):麦わら帽子の少女における浮世絵の画中画について」『Stella』33, pp.213-236.  Société de Langue et Littérature Françaises de l’Université du Kyushu