クールベのタチアオイ

ボストン美術館の中央玄関から入ってまっすぐ進むと両面ガラス張りの総合案内がある。入館者が情報を得たり、待ち合わせやソファで一休みするといった場所だ。人の動きやガラスの反射で気づきにくいのだが、そこの壁面にも絵画が展示されているのだ。

その中の一作に、グスタフ・クールベ (Gustave Courbet, 1817- 1877)の《銅鉢のタチアオイ》がある。

Gustave Courbet Hollyhocks in a Copper Bowl, 1872
MFA: 48.530

不透明な色使いと大きな筆触が花びらに重量を与えて造花のようにみえる。それに何の花か。

タイトルによれば描かれているのはタチアオイ。ひとの身長ほどに高くまっすぐ伸びた茎のまわりにハイビスカスに似た色鮮やかな花をたくさんつける植物だ。夏の田園風景によく見かけるが、個人的には花の美しさよりも、その毛羽だった強そうな茎の直立した様子が印象にのこっている。

ここではそのタチアオイ特有の立ち姿は描かれていない。短く切って活けた花は、それぞれにどこか寂しげだ。

MFAによれば、この作品はクールベが投獄されていた時期に花から描き始め、その後銅製の花器を描き加えたようだ。

1871年パリ・コミューンに参加しヴァンドーム広場のコラム(記念柱)を引き倒す動きを先導したことでクールベが収監された。その間、妹に画材や花、書籍などを差し入れてもらい獄中で描いていたという。

ロマン主義やアカデミズムとは相容れず、写実主義もって我が道を貫いたクールベ。実家の経済力も手伝ってか当時主流だった公募展に反して個展を開いたり、有力者からの依頼を断るなど、その大胆な言動はよく知られていたようだ。パリ・コミューンのコラム事件では、収監のうえにコラム損壊の賠償ももとめられ、釈放後スイスに亡命して1877年に亡くなった。

嘗てパリ一番の横柄な男、暴れん坊と浮名を流した怖いものなしのクールベだったが、その影は見えない作品だ。収監に至ってはそれまでのような自由奔放は許されず、生まれて初めて生きる厳しさを感じていたのかもしれない。

花は開いて朽ちてはいない。が、生死がわからないまま闇の中に吸い込まれていくようだ。

1872年といえばクロード・モネの《印象・日の出》が発表され、「印象派・印象主義」誕生の年でもある。写実主義の先導者としてレアリズムを追求しながら力強い筆触分割をみせて印象主義の誕生にも影響を与えたことはこの作品からも見て取れる。

パリから遠く離れた失意のクールベは、この印象派の幕開けを知っていたのだろうか。

参考サイト
Gustave Courbet 《Hollyhocks in a Copper Bowl》(1872)
https://collections.mfa.org/objects/33259/hollyhocks-in-a-copper-bowl?ctx=f4c904ee-ba09-4769-88c7-38755b55db80&idx=0

デビッド・ホックニー展

10月の東京、清澄白河の東京都現代美術館でDavid Hockney展が行われていた。
ホックニーは現役で多作なアーティストなので個々の作品を見かける機会はたびたびあるが、今回初めて活動初期の作品から近作までほぼ時系列で見ることができた。

デビッド・ホックニー展 会場ロビー 東京都現代美術館

まず、以前から好きな《 スプリンクラー 》(1967)。草木を愛するイギリス人のホックニーが、移住先のカリフォルニアで見た人工的に生かされる自然の風景を描いたもの。霧状の水を噴き上げるスプリンクラーをみると未だにアラジンの魔法のランプを思い出す。平屋建てでみずみずしい芝生が見える大きな一枚ガラスの窓の家。芝にまかれた水は乾燥と高温ですぐさま蒸発…10代の夏サンフランシスコ郊外で見かけた風景が蘇る。水とホースの曲線以外は直線ばかり。吹き上がる水の心許ない線が非現実的でリアルだ。
建物は少しだけエドワード・ホッパーを思い出させる。水と言えば《リトグラフの水》(1978−80)の連作も面白い。

パブロ・ピカソに捧げられた作品も多かった。ピカソ作品の多彩さにホックニーの求めた自由を見いだしたのだろうか。ピカソの感覚をたどるように描きながら、洞察し、共感し、同調してインスピレーションを得た作品が多く展示されていた。自らを画学生やモデルとしてピカソと対峙させる。その存在を鑑としているのか。ピカソに対する強い敬愛や親近感、対話欲求も鮮明に描かれ、さながらピカソ作品への返歌のようだ。そうした憧れからか、ピカソが晩年信頼した刷師にホックニーもたどり着いている。

近年のホックニーと言えば、ポートレートを見かけることが多かった。70年代のダブル・ポートレート、特に《クラーク夫妻とパーシー》や《両親》は印象強く今回も楽しみにしてきた。ファッショナブルでクールなクラーク夫妻がどこかクラシックな香りのするモダン演出で描かれている印象を持っていた。だが今回はふたりの関係性が前面に出ているような印象が加わった。ホックニーの両親は、どうしても中心に据えられた鑑がヤン・ファン・エイクの《アルノルフィーニ夫妻の肖像》が浮かんで、そちらに目が行ってしまう。しかし鏡の中、上部に描かれているのはピエロ・デッラ・フランチェスカのキリストの洗礼のようだ。なぜ洗礼?下の緑色のカーテンもルネッサンス作品のどこかで見たような気がする。なぜここに鑑があり、そこに写っているのは遠い15世紀あたりの絵画なのか。
最近のポートレートはリトグラフが多いようだ。そしてこの美術館はリトグラフ作品を多く所蔵している。

この展覧会では風景画も多く展示されているが、そのほとんどが巨大画面である。
壁一面を覆う《春の到来 イースト・ヨークシャー、ウォルドゲート 2011年》は32枚のカンヴァスに油彩で描かれたもので総面積は365.6 x 975.2cm。一作品にこれほど多くのカンヴァスを使っているのを初めて見た。しかしこの後50枚継ぎの油彩を見ることになるのだが。

《春の到来 イースト・ヨークシャー、ウォルドゲート 2011年》(2011) *撮影許可あり

木立の中心にある小道のフクシャっぽい色が作品後ろの壁面にも塗られ、その色がフローリングにも映っている。鑑賞者を森に誘っているようだ。実際、この日は小学生の団体が見学に来ていたが、帽子をかぶって活発に動く姿と相まって、そこが遠足の風景のように感じられた。

《春の到来 イースト・ヨークシャー、ウォルドゲート 2011年》(2011)

鮮やかな配色と平面的な彩色で一見ナイーヴな筆致が、なおさらに春の到来の喜びを感じさせる。自然のサイクルの中で伸びやかに生き生きと枝葉を広げる草木。人も森も自然の恩恵なしには生きられないのだ。
ホックニーの風景画は、鑑賞者をその中に招き入れてくれる。多くの風景画では鑑賞者は絵画の外に置かれて、その風景との関係性で思い入れの有無はあっても、決められた視点にいることを強いられている気がする。制作者が鑑賞者の存在を考えないからかもしれない。ホックニーは鑑賞者を意識して創作している気がする。

ホックニーは風景画を手がける中で遠近法についても独自の方法を探った。東洋の絵巻などの研究によって得た手法を用い、視点を固定せず複数方向からの視点を画面上に構成している。私たちには馴染みがあるが、西洋の伝統的な技法ではたしかに視点は固定されている。新たな手法に至る過程ではピカソのキュビズム作品なども影響したようだ。80年代のホテル・アカトランシリーズでは逆遠近法の試みをハッキリと見ることができる。
そしてCovid19のロックダウン中に描いた作品が《ノルマンディーの12ヶ月 2020-2021年》。複数のiPadで制作されプリントされたという100x9000 cmの巨大絵巻だ。こうなると鑑賞者もノルマンディーの12ヶ月を散策することになる。

ホックニーの長い作品歴を辿ると様々な技法を活用していることがわかる。特に社会全体がデジタル化された近年はiPadの発表と共に支持体として迎え、作品をアニメーション化したりインクジェットプリントしたりしている。尽きない好奇心と実行力は常に現代アートの最前線を生き抜くアーティストたるゆえんだろう。図らずもポップアート作家に括られてしまうのは、カラフルな彩色(ブリティッシュのDNAか)や一見親しみやすい表現の他に、時代のハイテクをためらわず取り入れる身軽さのせいもあるのかもしれない。

世界中が鬱々と過ごした時期を共に経験し寄り添ったホックニーが春の訪れを告げにやって展覧会。理屈抜きで楽しかった。そう思えるのは作品の特徴を生かしながら観客の側に立った展示方法がとられていたからだろう。大きな作品は観客を抱擁する魅力がある。それも含め、それぞれの作品との距離感も心地よく、散歩がてらの鑑賞という気軽さが多くの観客が集めたのだろう。

ちなみに冒頭に展示されているエッチングとアクアティントで水仙を描いた《花瓶と花》。できることなら人生を共にしたいとずっと思い続けている。

アルカラ・リ・フシ「フェスタ・デル・ムッツーニ」

シチリアの北部アルカラ・リ・フシ(Alcara Li Fusi)という村では、毎年6月24日「フェスタ・デル・ムッツーニ(Festa del Muzzuni:ムッツーニの祭り)」という催しがある。
イタリア最古の祭りで盆に置かれた洗礼者ヨハネの頸が村を練り歩くという。それを聞いては見に行かずにはいられない。

シチリア北部、小さな町々を横目にどんどん海抜が上がっていく。すると薄もやの中から険しい岩肌が見えてくる。道路は日光のいろは坂並の山道で、車酔いしそうになりながらひたすら上がっていくと、いきなり視界が開ける。まさに秘境。教会を見上げながら路上駐車列の最後尾にたどりつき車から降りると、すでに日が傾き始めた空は真近かにみえる。道路脇から見下ろすと驚くほどの高さまで登ってきていた。

本来この祭りは6月23日〜25日の3日間だが、クライマックスは24日のムッツーニの夜。
車の混み具合とは裏腹に通りの人影はまばら。すでに教会のミサが始まっていた。
教会に入る。祭壇の横にはお盆にのせられた洗礼者ヨハネの頭部がおかれていた。

ところで、ムッツーニとは首のない水差し 「mozzata(モッツァータ):切り落とされた」、または刈られて束に集められた小麦 「(mazzuna(マズーナ)」から派生した言葉らしい。また宗教的な観点からは 「decollato(デコラート):斬首された」聖ヨハネ と捉えられる。ギリシャ文明にまで遡る古代儀式の流れをくむ農民によって行われる異教の祭りだそうだ。 豊饒を讃える儀式は、自然や愛、若さへの賛歌と考えられている。

夏至と同時に行われるこの祝祭はもともと6月21日に行われた。 しかし、キリスト教の到来によって、斬首された殉教者聖ヨハネに捧げられた6月24日に変更された。 それ以来この儀式は異教とキリスト教の要素が混合され、何世紀にもわたって繰り返されてきたのだ。

6月24日夕方、教会では洗礼者ヨハネに捧げるミサが行われ、そのあとお盆にのせられた洗礼者ヨハネの頭部は緩急の厳しい山腹の村を司祭や信者、村人とともに練り歩くのだ。

行列が終わると村人は三々五々広場から離れていく。その間にパーティーの準備段階が始まりる。教会の前にある小さな噴水広場がこれから行われるパーティーの会場だ。シルクのスカーフで覆われたカットネックの水差しが置かれ、水差しの上部から暗闇の中で発芽した大麦や小麦の茎、ラベンダー、小麦の穂やカーネーションが見える。ムッツーニの祭壇も設置完了だ。

そして夜が深まり教会前の噴水広場が人々で埋め尽くされるころ、着飾った若い女性たちがあらわれる。彼女らは古代の異教の巫女の象徴。ムッツーニを外に持ち出し、すでに準備ができていた祭壇の上に置く。 ここからがパーティーのはじまりだ。歌手たちは農民の生活や愛や求婚の歌をうたい、若者たちはみな踊り出すのだ。

二つの行事は首がないとか刈り取られたという意味の共通点があるが、内容の理解には歴史をかなり掘り下げる必要がありそうだ。深夜のパーティは五穀豊穣へ感謝や願いと若い男女の出会いを重ねているようで、昔から行われた日本の農村で行われてきた盆踊りなどの村祭りに似ている。しかしその祭りと洗礼者ヨハネの斬首の日をわざわざ重ねている。残酷さと若者が生み出す歓喜。これもいわゆるメメント・モリ、生と死の隠喩なのか。

深夜、カーブが続く細い夜道は街灯もなく、車のライトに照らされる木々の間から時折りみえる野生動物の眼光に目を奪われながらひたすら下る。本線道路に出たときは思わずホッとした。神秘的な祭りと山深い村の雰囲気、長く続く帰路の闇もふくめて、しばし異次元を漂ったかのような経験だった。

ヴィッラ・ロマーナ・デル・カサーレ

イタリア・シチリアの第二の都市カターニアから車で約1時間半のピアッツァ・アルメリーナという地で発見された古代ローマ時代の有力者の別荘が、ヴィッラ・ロマーナ・デル・カサーレ (Villa Romana del Casare)だ。1997年世界遺産に指定されている。気温35度の炎天下、意を決して訪ねてみた。

四方の海から十分に内陸に入ったこの土地は、古代ローマの大土地所有制ラティフンディウム(latifunduim)と関連した別荘として非常に高い地位の有力者が所有していたと言われている。古くは1世紀から素朴な邸宅があったようだ。ここが最も発展した4世紀の建造物の下に紀元後1世紀までに作られた壁の残骸が発見されたことでこれが証明された。現在残るものは361年から363年の地震の後に増築されたものとされている。

浴場の外側にあるボイラー

4世紀は大広間をはじめとする各部屋や廊下などに豪奢な装飾が施されるなど、全体として非常にで充実を見せた時期だという。5〜8世紀には古い構造の上に田舎の集落が建てられた。その後も様々に変化しながらも集落として使われていたが、12世紀後半に大規模な崩壊がありこの地は放棄された。14〜16世紀に再び活気を取り戻すも17〜18世紀に頻繁に発生した洪水により水没し忘れ去られた。

床のモザイクを見る見学者

1820年サバティーノ・デル・ムト(Sabatino del Muto)の指導で発掘が行われ遺跡の大部分とモ
ザイクの床が発見された。

最初の発見から採掘や研究が継続されていたが、1900年代半ばになると遺跡保護のプロジェクトも始まり段階的に現在の形が作られたようだ。

来客を迎える玄関から続く回廊



3500㎡の遺跡は現在、全面が屋根で覆われて見学者用の通路は高い位置に作られている。壁のような仕切りはないため歩きながら四方広範囲が見られ、そこから見下ろすモザイク画の大廊下などは圧巻だ。

右は来客用の玄関から続く列柱に囲まれた中庭。内側がモザイクが敷き詰められた回廊となっており中庭の中心には噴水が備えられている。床のデザインは月桂樹の冠を模したメダリオンの中心に動物の頭部が描かれ、4隅には植物や鳥が置かれている。別荘の主人が来客に対して富と権力を誇示する最初のインパクトになっただろう。

浴場に向かう家族

別荘には50を超える部屋があり、床を埋め尽くした豪華なモザイクは、用途にあわせて意匠を凝らした贅沢で洗練された仕事ばかりだ。モザイクのマエストロはアフリカから呼び寄せられたと言う。北アフリカ、エジプトあたりとの国交だろうか。
左の画像は浴室前の脱衣所。女主人と香油や入浴用具を持った人々が入浴に向かう様子が描かれている。

主寝室
十人娘の間




他の部屋も、主寝室にはロマンティックなカップルのモザイク画、キッチン(パントリー)にはフルーツなどの図柄をとりいれるなど、それぞれに細やかな意匠を凝らしている。

「十人娘の間」と呼ばれる部屋には、スポーツを楽しむビキニ姿の少女たち。健康的で活発な少女たちの動きが古さを感じない。しかしよく見ると、例えば右下の少女、プロポーションとポジションのバランスがとれていない。ちなみに左上部角の欠損部分から少女たちのモザイク画の前にあったジオメトリックなデザインのモザイクが見えている。フレスコ画の壁は残念ながら多くは残っていない。
当時の画材と技術の未熟さのせいだろう。水没も経験しているはず。残念だ。

大狩猟(部分)

この廊下が最も有名だろう。
幅5m長さ約66mの細密なモザイクで埋め尽くされた大廊下。これが「Grande Caccia(大狩猟)」
ローマのサーカスで興業に使われる動物(猛獣)を捕らえる狩猟旅行の様子が描かれている。ライオンやトラ、ぞう、珍しいサイや神話上のグリフィン(頭は鷲、翼があるライオンや蛇)などもある。珍鳥や魚の類いもあり、驚べき種類の多さだ。捕らえられた動物は騎士などの監督下で働く人々によって船に積まれていく。まさに壮大な狩猟大航海の物語だ。

大狩猟(部分)

この別荘が、海外からの動物の輸入で財をなした人物が所有した時期があるのではないかと言われるのは、この壮大な大廊下画によるのだろう。こうした美術品があれば主は自慢の大航海物語を披露して話も弾み、来客を飽きさせることはなかっただろう。

大狩猟(部分)魚を捕獲する場面だが不思議な生き物も見える

こうした装飾の芸術性、物語性からは所有者の高い教養と洗練された美意識がうかがわれる。また、別荘内が私的なスペースにとどまらず「Basilica(バジリカ)」もある。古代ローマではこれは集会場・公会堂である。ここでは大理石をふんだんに使うなどこの別荘の中で最も贅沢な材料が使われているそうだ。
こうした豪華な装飾を施した邸内には浴場あり、床暖房有りと当時の最新の設備をふんだんに取り込んでいる。相当高いレベルの支配階級にいた人々が所有していたことは明らかだ。

モザイクに関しては、紀元後まもなくアフリカからモザイク制作者を呼んだとなると、思い浮かぶのはポンペイで発掘されたモザイク画《La battaglia tra Dario e Alessandro(Battaglia di Isso)》だ。エジプト・アレクサンドリアのモザイク師が作ったと言われている。もしやこの別荘もアレキサンドリアから高度な職人を連れてきたのかもしれない。

画題に関しては、動物や自然、音楽やダンス、ゲームやスポーツなど日常生活の様子や神話からとられていて、宗教色が見当たらない。「大狩猟」廊下中心から入る大広間はバジリカというが、現代人が想像する教会の意味ではなく集会場や裁判所のような場所だ。当時は初期キリスト教から中世。これまでラヴェンナとヴェネツィア、パレルモ、ナポリの考古学博物館のポンペイのモザイクをみたことがあるが、宗教的な作品のほうが記憶に残っている。(中でもラヴェンナのサン・ヴィターレが忘れがたい。)
しかしここはラヴェンナに見られるような煌びやかなモザイク宗教画があらわれるビザンチンにも至らない時代だ。こうしたこともあり当時の人々の文化を象徴した別荘になったことは、結果的にはより独特で非常に興味深い。

シチリア全土で今年一番の暑さを観測した日、扇子を駆使し酷暑のなかまわった甲斐があった。当時の客人にどれほどのインパクトと興味をもたらしたかと想像に難くない、見れば見るほど惹きつけられる作品群だった。

参考サイト
Museo Archeologico Nazionale di Napoli 「La battaglia tra Dario e Alessandro」
https://www.mann-napoli.it/mosaici/#gallery-3

Villa Romana del Casale
https://www.villaromanadelcasale.it/villa-romana-del-casale-piazza-armerina/

Unesco Villa Romana del Casale
https://www.unesco.it/it/PatrimonioMondiale/Detail/126

北斎のマイナーな弟子

今回北斎展を見ていて、普段以上に雅号が気になった。
北斎自身は30以上の雅号を持っていたと聞いている。使い捨て感覚の家の引っ越し93回の数値には遙かに及ばないが、ここまでの数になると見る側としては注意がいる。

北斎の雅号は初期に学んだ勝川春章時代の春朗や、琳派の俵屋宗理から襲名した二代宗理(後に宗家に返す)は別にして、北斎となって以降「戴斗」「為一」「雷斗」「卍」ほか多数を使い分け、気が向くと弟子に与えたりしたようだ。例えば北斎長女、如風の元夫柳川重信も北斎から「雷斗」引き継いだ。号を複数持つことはめずらしいことではないが、北斎周辺の混乱はなかなか手強そうだ。

例えば、卍斎一昇と北仙、卍斎が同一人物かもしれないという話。おなじみの浮世絵第一人者、キュレーターのトンプソン氏はこの人物について「北斎門徒としてはかなりマイナーな絵師であったが多くのドローイングを所持していた可能性がある」ということで注目していた。これにはMFAならではの理由がある。つまりMFA日本美術初代キュレーターのアーネスト・フェノロサ(1890−96在任)の次の話による。

膨大なコレクションをMFAに寄贈したウィリアム・スタージス・ビゲローは1885年、若いときに北斎の工房で学んだという老人の工房でドローイングを購入したとのこと。北斎の没年は1849年なので、ビゲローはその後40年にも満たないうちにこの老人に会っていることになる。そしてその時購入した一作《幟の下絵?韓信胯潜之図》の左上角にビゲローよって「北斎の生存する最後の弟子から購入ー東京-1885-6 北斎 WSB」(実際は英語)とかすかな鉛筆書きが添えてあるのだ。もしかしたらこの老人がドローイングをたくさん所蔵していたマイナー絵師だったのかもしれない。

作者不詳(伝葛飾北斎)幟の下絵?韓信胯潜之図
MFA William Sturgis Bigelow Collection, 1911. 11.46038

《幟の下絵?韓信胯潜之図》は紙を貼り次いで描かれたもので、大きな幟のようなもの下絵にみえる。ビゲローは北斎真筆と信じて購入したようだが、現在の調査では明らかになっておらず弟子などの可能性が高いとのことだ。

ビゲロー来日のころ、著名浮世絵師門徒の工房がまだ存在していた。こういう話を聞くと作品の息吹がよりリアルに感じられる。

幕末からの廃仏毀釈や明治の急激な近代・欧米化で国民にとっては自国の文化がなおざりなっていた時期だったのだろう。全く異なる文化を生きてきたビゲロー(もちろんエドワード・モースやフェノロサも)が日本の美術品に価値を見いだして救いだしてくれた。(おかげで関東大震災も免れた!)

MFAに所蔵されている日本の美術品は、つくづく幸せ者だと思う。

<参考>
Sarah E. Thompson, Curator for Japanese Prints, Art of Asia
「Hokusai and His Students」 (Lecture: 5/20/2023, MFA)

作者不詳(伝葛飾北斎),幟の下絵?韓信胯潜之図
MFA William Sturgis Bigelow Collection, 1911.  11.46038


北斎とピカソ

MFAの北斎展期間中にはテーマ別の講演も行われたが、そのとき北斎の妖怪画や作品の理解に役立つような日本の風習や考え方などをテーマにした回があった。そのなかでは北斎の艶本《喜能会之故真通》の《海女と蛸》に影響を受けた画家としてパブロ・ピカソ(1881−1973)が登場したのだ。

19世紀後半のジャポニスムといえばパリの印象派やアール・ヌーボーの工芸作品に気を取られ、当時活動期初期のピカソの作風を浮かべると、ジャポニスムの影響はなおさらイメージしにくい。しかし春画となると話が違う。ピカソの女性関係、そうした経験を投影するようなミノタウロスの存在だ。ギリシャ神話、クレタ島ミノス王がポセイドンに捧げるはずだった美しい牡牛に魅せられてほかの牡牛とすり替えたことに怒ったポセイドンが、美しい牡牛を凶暴にし王妃パーシファエ(キルケの妹でアリアドネの母)には牡牛への恋心を抱かせた。そうして生まれたのが牛頭人身のミノタウロスだ。ピカソはこの怪物を性欲、野生、凶暴性、そして絶望や罪悪感などの擬人化とし、自分自身を象徴する存在としてもたびたび描いている。ミノタウロスはピカソの作風が変わりながらもたびたび現れていることを思い出すにつれ、ピカソと春画、ひいてはジャポニスムとの関連性が確かに浮かんでくるのだ。

そんなわけでオンライン上で「海女と蛸、ピカソ」で検索すると、関連を裏付ける情報が簡単に得られて驚いた。手っ取り早いところではWikipedia英語版《The Dream of the Fisherman’s Wife》に、《Dona i Pop》 (カタルーニャ語, 英訳”Woman and Octopus”) (1903), private drawingという女と烏賊のような蛸が描かれた作品が掲載されている。もう一作、バルセロナのピカソ美術館には紙に色鉛筆などで描かれた《Le Maquereau(鯖)》(1903)が所蔵されている。これは先の《Dona i Pop》によく似た作品だ。 両方ともあきらかに北斎の《海女と蛸》を髣髴とさせる作品だ。

さらに、この美術館のサイトによれば、2009年11月から2010年2月にかけて「Secret Images. Picasso and Japanese Erotic Prints」と題する展覧会が同館で開催されていたことがわかった。浮世絵版画とピカソ作品との関連を明らかにする展示で、全体像はこのサイト上で現在も閲覧できる。会場風景として撮影しているため詳細は見えにくいが、作品にとしては、ピカソ作品はほぼ銅版画やドローイング、浮世絵の方は春画のほかに美人画や絵本の類、名所絵とその制作過程などのほか、版木や絵の具など、木版画の道具も展示されていてる。とにかく春画はかなり引いて撮影していて判別がつきにくいものが多いが、会場内で使われていたと思われる説明内容や、ゆったりと着物を羽織って寛ぐピカソの写真からも、彼のジャポニスムや浮世絵版画への傾倒ぶりは明らかだ。何しろ展示している浮世絵がピカソのプライベートコレクションだというのだから、これ以上の証拠はないだろう。

バルセロナは1895年、ピカソが10代半ばで移り住んで以来パリに移住後も含めてたびたび往き来していた土地だ。ピカソ美術館はスペインとフランスに5館も存在するが、そういう縁もあってバルセロナはピカソの存命中に早々に開館されたのかもしれない。

存命中と言えば、ピカソや北斎に関しての著書が多い美術評論家の瀬木慎一は生前、ピカソと個人的に親しく交流があったことで知られている。ピカソが北斎に共感し、北斎が自らを「画狂老人」と呼んだことを自分にも重ねていたとのはなしもどこかで見かけた。ピカソの日本文化への興味、当時のジャポニスムへの傾倒ぶりなど、瀬木慎一の書籍には詳しく書かれているのだろうが、ebookになっていない著書がほとんどで、現状では確認できないのが残念だ

<参考サイト>
Museu Picasso, Barcelona Exhibition「Secret Images. Picasso and Japanese Erotic Prints
05/11/2009 – 14/2/2010」
https://museupicassobcn.cat/en/whats-on/exhibition/secret-images-picasso-and-japanese-erotic-prints#archivo

Pablo Picasso《Le Maquereau》(1903)
Museu Picasso, Barcelona Inventory number: MPB 50.497
https://museupicassobcn.cat/index.php/en/collection/artwork/le-maquereau

Wikipedia英語版「The Dream of the Fisherman’s Wife」(海女と蛸)https://en.wikipedia.org/wiki/The_Dream_of_the_Fisherman%27s_Wife

如風 

現在ボストン美術館では北斎と北斎から影響を受けた作品を紹介する特別展が行われている。
影響を受けたといえば印象派やアール・ヌーボーを考えがちだか、今回は北斎と北斎門下生や影響を受けた同時代の絵師の作品が多く取り上げられていた。

その中に、如風(じょふう)と署名された作品があった。

肉筆画《柳下三美人図》三連作。透明感のある彩色が柔らかな雰囲気を醸し出している。一見して一人の絵師の連作のように見えた。しかし署名はそれぞれ異なっていた。

柳下三美人図 (1820s) MFA Fenollosa-Weld Collection, 1911    
 11.4644.1, 11.444.2, 11.4644.3

如風(右)
《柳下三美人図 親子》

応斎(中央)
《柳下三美人図 遊女と禿》

気斎(左)
《柳下三美人図 船宿の仲居》

3作の署名が異なるにもかかわらず画風が酷似している。

北斎長女如風子画帖 (1820s)
MFA William Sturgis Bigelow Collection, 1911   11.934
6

そして次の画像、前の肉筆画3作の習作らしき頁が開かれていた。そして何よりもこの画帳には手書きのタイトルがつけられているというのだ。それが《北斎長女如風子画帳》。つまり、北斎の長女である如風のスケッチを集めたて台紙に貼り付けたアルバムなのだ。

冊子状のため《柳下三美人図》との関連の頁を開いたため、タイトルは自ずとかくれてしまったのだ。タイトルを見られなかったのが残念。筆文字を理解できる鑑賞者が少数派と考えて、酷似性がわかりやすい作品頁を選んだのだろう。できれば画像でもかまわないから、タイトル部分が見たかった。

さてこのアルバムに添えられたキャプションによれば、この画帳のタイトル《北斎長女如風子画帳》が、如風を北斎の長女と考える根拠となったようだ。北斎には2人の妻に息子が2人、娘が3人いた。如風に先んじて有名なのは肉筆画《三曲合奏図》で知られる応為だ。日本では最近、アニメやTVフィルムなどにも取り上げられている。お栄ともよばれ三女であったから、未だ知られていない次女も絵師であった可能性もここで指摘している。当時女性の絵師はまれであったが存在は知られていて、それらの女性絵師たちの多くは有名絵師の娘やその妻だったという。絵画という特殊技術を習得するにもってこいの環境なのだからそれは容易に想像できる。

如風はお美与ともよばれ、北斎門下の柳川重信(1787−1832)の妻で男子をもうけた後に離縁している。父も夫も絵師であり、さらに江戸の庶民の住宅事情から想像するに彼女も妹の応為同様にそうした創作環境にドップリと浸かった暮らしをしていたのだろう。

さて先の作品に戻る。《柳下三美人図》には如風のほかに応斎、気斎。《北斎長女如風子画帳》も如風のほかに気斎と南斎という署名がある。応斎、気斎、南斎という画家は現在までに特定されていないとのこと。すべてが別々の絵師である可能性はもちろんあるが、このうちの1人、あるいは複数が家族かもしれないし、すべて如風の別名という可能性はキュレーターのトンプソン氏も指摘していた。

そうなるとやはり署名に目が行く。まず気になるのは、《北斎長女如風子画帖》の左の猪らしき動物を描いた作品の署名が、改めて画像で見ると「南」斎というより「応」斎にみえるきがするが。《柳下三美人図》の応斎と気斎の「斎」も筆圧の特徴がとてもよく似ている。どれも似た筆跡だという印象は拭えない。

現在のところ、ここで取り上げた如風(応斎、気斎、南斎)の作品はまだMFAのオンラインコレクションでは見られないようだ。展覧会で興味を持った人も多いだろう。画像下のアクセスナンバーで閲覧できる日も近いだろう。

それにしても、こうした新たな発見とそれを裏付ける絵画資料がMFA内調査でここまで完結するのだ。所蔵作品の潤沢な内容と膨大さをあらためて見せつけられた気がする。

如風の存在を知り、その作品に直に(ケース越しではあったが)触れることができたのは大収穫だった。

参考
Special Exhibition 「Hokusai: Inspiration and Influence」 (March-July, 2023 MFA)

Sarah E. Thompson, Curator for Japanese Prints, Art of Asia
「Hokusai and His Students」 (Lecture: 5/20/2023, MFA)

葛飾応為『三曲合奏図』William Sturgis Bigelow Collection 1911 11.7689
https://collections.mfa.org/objects/26487/three-women-playing-musical-instruments?ctx=176bf12f-7d29-4f4d-b23b-30deccf5fe43&idx=0

坂本龍一

坂本龍一の最新作「12」

心の乱れの特効薬。
ヨガよりも瞑想よりも脳の働きを落ち着かせる薬よりもよく効く。
無重力空間を静かに漂っているかのような感覚。
音楽が余計なモノをすべて取り払って「空」の環境をつくるのかもしれない。

このジャケットは李禹煥作。
異なる色は、異なるもの。
様々なことがら、近く遠く、離合集散しながら、しかし私たちも環境も変化していく存在。

YMO時代からずっと、作風の変化もふくめて好きでずっと聞いてきた坂本龍一の音楽。
やはり好きな造形作家、李禹煥と、最後につながった。

教授は彼の地の人となったが、同じ時代を生きて彼の生き方と作品を体感できたことは幸運だった。
坂本龍一という人とその作品に、心からの感謝を伝えたい。

サイ・トゥオンブリ

サイ・トゥオンブリ (Cy Twombly) はアメリカ出身の現代アート作家。

1928年ヴァージニア州に生まれ。ボストン美術館付属美術学校、ノースカロライナ州のブラック・マウンテン・カレッジなどに学びながら1951年にニューヨークで初の個展開く。その後南ヨーロッパや北アフリカを旅し、1957年、イタリアを定住の地とする。そして2011年83歳に生涯を終えるまで、50年以上をローマで過ごした。

現在、ボストン美術館でサイ・トゥオンブリの企画展が行われている。
そこで私が最も長い時間を過ごしたのは《Il Parnaso》。この作品は、ヴァティカン美術館「署名の間」のラファエロ・サンティによる一連のフレスコ画のなかの一作で、同名の作品《Il Parnaso (パルナッソス山)》からインスピレーションを得たとされている。

トゥオンブリは、このラファエロ作品の構成をたどっているので、先にラファエロ作品を見てみよう。

Parnaso (1510-1511) Musei Vaticani

ラファエロは、リラ・ダ・ブラッチョを奏でる芸術の守護神アポロを中心に、ミューズたちや「Carpe diem」で知られるホラティウス、『オデュッセイア』のホメロス、『神曲』のダンテなどラファエロの時代(ルネッサンス)までの著名な詩人たちが集う様子を描いている。

一方、下のトゥオンブリ作品もパルナッソス山に集う神々や文学者などが描かれ、ラファエロ作の登場人物は「Apollo」や「SAPPHO」のように名前やイニシャルなどでしるされているため、それを辿ることで両作品の構成の類似がわかる。また、ラファエロ作品が描かれたルネットの下がドアのために半円にはなっておらず、トゥオンブリ作品の中にもドアを枠取りした部分が作品中央下にラフな線で区別されている。そしてそのなかに彼は、3行に改行しながら「Il Parnaso/Cy Twonbly/1964」とタイトルと署名をしている。

Il Parnaso (1964) Cy Twombly Foundation

この作品を前にした最初のインパクトは、トゥオンブリが作品のなかにいる印象。《Il Parnaso》を描くトゥオンブリは、ヴァティカンのラファエロ作品のパルナッソスの芸術界に身を投じ、一方でキャンバスに向かって、パルナッソスの芸術界にいる自らも含めて描いたように見える。

サイ・トゥオンブリの作品の多くは抽象ながら一見して美しいと感じる。彼のインスピレーションの基本になるものは、学生時代から興味をもっていた古代ギリシャ・ローマの遺産(遺跡・遺品)。MFA付属美術学校時代もMFAに展示された古代の彫像や遺跡の破片をみるために足繁く通っていたことが今回の展覧会の中でも語られている。

そして遺跡や遺品を巡る旅のなかでローマに拠点を得たことによって、彼は自らのインスピレーションの源にドップリと浸かった創作人生をおくることになる。なんと幸せなことか! 古代ギリシャ・ローマ文化、文字ーグラフィティへの関心と、顕著な繰り返しへのこだわりや独自の(わずかな)色の法則などは、見る側にとっては彼のメッセージに触れる大きなヒントとなる。

トゥオンブリが「自らの言語」で語る時、何のためらいもみえない。グラフィティのように、あるいは色や動きで画面上に表現されるものはすべてが彼の一部となって、非常に早いスピードで迷いなくアウトプットされる。作品は既に彼の中で完成されているのだ。そうした彼の創造の跡を辿るうち、彼が作品の一部としてそこに存在しているように感じる。

そして、その勢いと空(無)とのバランスが、明瞭さと美しさを感じさせるのだ。

参考サイト
Cy Twombly, Il Parnaso, 1964
https://www.mfa.org/exhibition/making-past-present-cy-twombly

Raffaello Sanzio, Il Parnaso
https://www.museivaticani.va/content/museivaticani/it/collezioni/musei/stanze-di-raffaello/stanza-della-segnatura/parnaso.html

長登とファン・ゴッホとジャポニスム

ウェブ検索によれば、貞斉泉晁作の錦絵《尾張屋内長登》は2つの美術館で所蔵が確認できる。ボストン美術館に2点、もう1点はアムステルダムのファン・ゴッホ美術館。

ファン・ゴッホ美術館(以下VGM)はフィンセント・ファン・ゴッホ作品の展示公開を目的に1973年に開館した。1890年の画家フィンセントの死後、彼の作品などは弟のテオ、その妻を経て夫妻の息子フィンセント・ウィリアム・ファン・ゴッホ(伯父と同名)に相続されていた。作品をまとまった形で保管・公開したいというこの甥フィンセントの意思によりファン・ゴッホ美術館財団が設立され、オランダ政府が出資して美術館が建設された。ファン・ゴッホ作品のほか交流のあったポール・ゴーガンやトゥールーズ=ロートレック、彼が好んで模写をしていたバルビゾン派のミレーの作品なども所蔵する。ちなみに今年2023年、同館は50周年を迎えるとのこと。

VGMによれば、彼が1886−87年に購入した660点の浮世絵版画のうち、少なくとも512点が美術館に所蔵されているという。そして《尾張屋内長登》もフィンセントが収集した浮世絵版画の1つだったのだ。

Van Gogh Museum (公式サイトより)

1886年フィンセントはパリのアートディーラーのマネージャーとして働くの弟テオ宅に居候を始める。このころフィンセントは、通っていた画家フェルナン・コルモン(Fernand Cormon, 1845–1924)の画塾やテオを通して、モネやトゥールーズ=ロートレックなどの印象派の画家たちと出会う。そしてファン・ゴッホ兄弟は、1870年から浮世絵版画と工芸の店を経営していたジークフリート・ビングから浮世絵版画を買い始めるのだ。

同年の5月に刊行された雑誌『パリ・イリュストレ』の日本特集はシャルル・ジロが編集長を務め(馬淵,2011)、林忠正の論考や歌麿、春栄、豊国、北斎の図版が掲載された。これもフィンセントに多大な影響を与えたといわれている(神津,2017)。ビングについては以前ベルト・モリゾ関連で触れたが、もう少し先の1888年5月に『芸術の日本』を創刊している。1891年4月まで続いた月刊誌でフランス語、英語、ドイツ語の3カ国語で出版された。各号の表紙は絵画や浮世絵がカラー印刷され、論文1本と10点の色刷り複製版画が含まれたものだった(吉田,2014)。こうした質の高い出版物の数々からも、当時のジャポニスムの潮流の大きさがうかがえる。

フィンセント・ファン・ゴッホの作風は1886年以降、著しい変化が見られる。パリで出会った印象派や浮世絵に触発されたことはいうまでもない。そのうえこの1886−87年は、絵の具の質が大きく向上した時期でもあった(秋田,2019)。つまり、土由来のくすんだ色から鮮やかな色彩表現が可能になったことは「日本のような明るさ」を描こうと鮮やかな色を必要としたファン・ゴッホにとって、とても幸運なことだったのだ。

こうして描かれたフィンセントの浮世絵版画と日本への熱狂は、色彩豊かな作品によって今や誰もが知るところ。浮世絵から受けた豊かな色と明るい印象を日本そのものに重ね、地中海性気候の南フランス・アルルを日本に見立てて引っ越したのはそれから約2年後のことだ。

フィンセント・ファン・ゴッホは彼にとって異文化そのものだった浮世絵版画を自らの技術とアイディアに昇華し、独特のスタイルを確立した。独創的な解釈、彩度の高い絵の具使いや大胆な筆致で描かれた晩年の作品が国境を越えて多くの人々を魅了するのは、それらの作品の一つ一つに「庶民の芸術」と呼ばれた浮世絵版画の魂が受け継がれたからなのかもしれない。

参考文献
秋田麻早子 2019「絵を見る技術ー名画の構造を読み解く」朝日出版社
神津有希編 2017「北斎の受容およびジャポニスム関連年表」『北斎とジャポニスム HOKUSAIが西洋に与えた衝撃』国立西洋美術館 読売新聞東京本社 pp.314-323
吉田典子 2014「ベルト・モリゾと日本美術(2):麦わら帽子の少女における浮世絵の画中画について」『Stella』33, pp.213-236.  Société de Langue et Littérature Françaises de l’Université du Kyushu

参考サイト
馬淵明子『フランス人コレクターの日本美術品売立目録』紹介サイト
https://www.aplink.co.jp/synapse/4-86166-059-7.html

「Van Gogh Collects: Japanese Prints」Van Gogh Museum
https://www.vangoghmuseum.nl/en/japanese-prints

「Biography, 1886 – 1888 From Dark to Light」Van Gogh Museum
https://www.vangoghmuseum.nl/en/art-and-stories/vincents-life-1853-1890/from-dark-to-light