改印と上方絵

浮世絵版画は芸術作品と言うより今で言えば雑誌や広告に近い社会性・大衆性の高い大量出版物として制作されたため、作家名・タイトルは作品上にみられても、制作年の表記はあまりない。

浮世絵版画の作品考証のアプローチはさまざまだが、《妹背山婦女庭訓》のような芝居絵・役者絵といわれるものは、歌舞伎興行や役者そのもの動向から探る方法がある。運良く辻番付などが見つかると謎解きはかなり捗るのだ。それでも、歌舞伎動向からの情報を裏付けるものとして出版時期との照合は欠かせない。

そこで登場するのが石井研堂著『錦絵の改印の考証』。

江戸時代中期、寛政の改革に伴って出版統制がおこなわれた。この統制は作品の内容に公序良俗を乱すものがないか幕府を非難する内容がふくまれていないかなどを確認し、検閲の証としての改印(極印)を作品上に刷り込んで売り出すというものだ。統制が行われたのは1790(寛政2)年から1875(明治8)年。この『錦絵の改印の考証』では、8期にわたって様式が変化した改印制度を、印章例とともに説明している。幕末に向けて錦絵の出版がどんどん増えていったため、この時期の作品に関してはなおさら、出版時期の手がかりがあることは本当に有り難い。

そこで《妹背山婦女庭訓》。この作品には改印がないことは以前ふれた。そのため私は作品の出版時期は改印制度が廃止されたあとの1875(明治8)年以降と仮定し、ボストン美術館(MFA)のアーカイブで芳瀧のほかの作品を調査していた。その課程で、江戸のような改印がないことに気がついたのだ。

たしかに芳瀧は関西で活躍した絵師。さらに、江戸の浮世絵版画を「江戸絵」というのに対して、京都・大阪の浮世絵版画を「上方絵」と呼ぶという事実。MFAサイトで「kamigata-e」は1720作品ヒット。無作為に20作を閲覧したが、やはり改印はない。立命館大学の浮世絵ポータルサイトでも上方絵リストの改印欄はどこも「ー」。データなしとなっていた。

少なくともこれまでざっとみたところでは、出版統制は浮世絵版画が隆盛を極めた江戸だけで行われていた可能性が高いということだ。何しろ改印の検分をしていたのは地本問屋の行事や改掛かりの町名主。上方のこうした改め係の情報は少なくともこれまで見ていない。

京都・大阪では規制の必要がないほど、江戸に比べると浮世絵の出版数が少なかったせいかもしれない。あるいは幕府のお膝元の江戸ほど出版物の内容に神経をとがらせていなかったのか。芳瀧作品の改印を必死で探していた私にとってはかなりの脱力だが、初めての上方絵のおかげで新たな学びを得られたのは嬉しい!

ということで、制作時期の仮説は取り下げて振り出しに戻るとしよう。