Covid後初の帰国中、乃木坂の国立新美術館で「李禹煥展」を観ることができた。
国立新美術館開館15周年記念というだけに、1960年代の作品から本年の作品まで一気に味わえる充実ぶり。
《関係項》は李禹煥が長年にわたって素材や表現を変えながら作り続けている。石、鉄板、ガラス、木材などから、近年はアクリルや液体なども加わっている。私たちはひとつの《関係項》に2つの素材を見ることが多いが、当然そこには創作者のモノとの関わりが隠れている。モノと環境の関係。何かと何かの関係 素材・質感の相違による関係。モノは置かれた状況や他のモノとの関係でも役割が変化する。あるいは本来の役割を失う。そしてそれを見る側の見方によっても変化する。
前回李禹煥作品を見たのは2007年のヴェネツィア・ビエンナーレ期間中Palazzo Palumbo Fissatiで開催されたの個展だった。
李禹煥と私は余白の好みが近いのだ、と勝手に思っている。作品に取られる余白は空(くう)でも無でもなく、空気がながれ、見る側にいる私までもそれを感じるからだ。
余白と言えば思い出すのが書の余白。書は白と黒の世界。まだ私が十代になったばかりのころ、書の師匠は、書き上がったら余白をみるようにといっていた。つまり、余白が美しいとき私の書もよくかけていると。それから今に至るまで平面も立体も、余白を見ること、いわゆる図と地の観察が癖になっている。
李禹煥の平面作品には書の経験を感じる作品が多い。平行と垂直のバランス。《線より》など見ていると、書の創作と重ねて、どれぐらい息を止めて描いたのだろうと想像する。美しい余白、地と図の完璧なバランス。そのストイックな集中の後に押し寄せるであろう疲労と恍惚までも共有してしまう。
そしてどの作品でも、《風より》のような一見ランダムな筆跡に見える作品や、広い空間でのインスタレーションであっても、作品の完結の仕方に優れた書家の作法が感じられる。
草間彌生や村上隆が現代アート作家日本代表として世界的な活躍を見せて久しい2000年代に入ってからも、イタリアのアート関係者からは「具体」とか「もの派」という言葉を頻繁に耳にしたものだ。
などと考えながら、ふと、ミラノ在住でイタリアを中心に活躍された長沢英俊氏を思い出した。連絡をいただきながらお会いできずに終わったことが悔やまれる。
今回の李禹煥展、観客がひいた展示室で美術館員に「李先生はお元気ですか?」とこっそり聞いてみた。「はいっ!お元気ですよ。」との即答。作品に触れた満足感がより膨らんだ。