北斎のマイナーな弟子

今回北斎展を見ていて、普段以上に雅号が気になった。
北斎自身は30以上の雅号を持っていたと聞いている。使い捨て感覚の家の引っ越し93回の数値には遙かに及ばないが、ここまでの数になると見る側としては注意がいる。

北斎の雅号は初期に学んだ勝川春章時代の春朗や、琳派の俵屋宗理から襲名した二代宗理(後に宗家に返す)は別にして、北斎となって以降「戴斗」「為一」「雷斗」「卍」ほか多数を使い分け、気が向くと弟子に与えたりしたようだ。例えば北斎長女、如風の元夫柳川重信も北斎から「雷斗」引き継いだ。号を複数持つことはめずらしいことではないが、北斎周辺の混乱はなかなか手強そうだ。

例えば、卍斎一昇と北仙、卍斎が同一人物かもしれないという話。おなじみの浮世絵第一人者、キュレーターのトンプソン氏はこの人物について「北斎門徒としてはかなりマイナーな絵師であったが多くのドローイングを所持していた可能性がある」ということで注目していた。これにはMFAならではの理由がある。つまりMFA日本美術初代キュレーターのアーネスト・フェノロサ(1890−96在任)の次の話による。

膨大なコレクションをMFAに寄贈したウィリアム・スタージス・ビゲローは1885年、若いときに北斎の工房で学んだという老人の工房でドローイングを購入したとのこと。北斎の没年は1849年なので、ビゲローはその後40年にも満たないうちにこの老人に会っていることになる。そしてその時購入した一作《幟の下絵?韓信胯潜之図》の左上角にビゲローよって「北斎の生存する最後の弟子から購入ー東京-1885-6 北斎 WSB」(実際は英語)とかすかな鉛筆書きが添えてあるのだ。もしかしたらこの老人がドローイングをたくさん所蔵していたマイナー絵師だったのかもしれない。

作者不詳(伝葛飾北斎)幟の下絵?韓信胯潜之図
MFA William Sturgis Bigelow Collection, 1911. 11.46038

《幟の下絵?韓信胯潜之図》は紙を貼り次いで描かれたもので、大きな幟のようなもの下絵にみえる。ビゲローは北斎真筆と信じて購入したようだが、現在の調査では明らかになっておらず弟子などの可能性が高いとのことだ。

ビゲロー来日のころ、著名浮世絵師門徒の工房がまだ存在していた。こういう話を聞くと作品の息吹がよりリアルに感じられる。

幕末からの廃仏毀釈や明治の急激な近代・欧米化で国民にとっては自国の文化がなおざりなっていた時期だったのだろう。全く異なる文化を生きてきたビゲロー(もちろんエドワード・モースやフェノロサも)が日本の美術品に価値を見いだして救いだしてくれた。(おかげで関東大震災も免れた!)

MFAに所蔵されている日本の美術品は、つくづく幸せ者だと思う。

<参考>
Sarah E. Thompson, Curator for Japanese Prints, Art of Asia
「Hokusai and His Students」 (Lecture: 5/20/2023, MFA)

作者不詳(伝葛飾北斎),幟の下絵?韓信胯潜之図
MFA William Sturgis Bigelow Collection, 1911.  11.46038


北斎とピカソ

MFAの北斎展期間中にはテーマ別の講演も行われたが、そのとき北斎の妖怪画や作品の理解に役立つような日本の風習や考え方などをテーマにした回があった。そのなかでは北斎の艶本《喜能会之故真通》の《海女と蛸》に影響を受けた画家としてパブロ・ピカソ(1881−1973)が登場したのだ。

19世紀後半のジャポニスムといえばパリの印象派やアール・ヌーボーの工芸作品に気を取られ、当時活動期初期のピカソの作風を浮かべると、ジャポニスムの影響はなおさらイメージしにくい。しかし春画となると話が違う。ピカソの女性関係、そうした経験を投影するようなミノタウロスの存在だ。ギリシャ神話、クレタ島ミノス王がポセイドンに捧げるはずだった美しい牡牛に魅せられてほかの牡牛とすり替えたことに怒ったポセイドンが、美しい牡牛を凶暴にし王妃パーシファエ(キルケの妹でアリアドネの母)には牡牛への恋心を抱かせた。そうして生まれたのが牛頭人身のミノタウロスだ。ピカソはこの怪物を性欲、野生、凶暴性、そして絶望や罪悪感などの擬人化とし、自分自身を象徴する存在としてもたびたび描いている。ミノタウロスはピカソの作風が変わりながらもたびたび現れていることを思い出すにつれ、ピカソと春画、ひいてはジャポニスムとの関連性が確かに浮かんでくるのだ。

そんなわけでオンライン上で「海女と蛸、ピカソ」で検索すると、関連を裏付ける情報が簡単に得られて驚いた。手っ取り早いところではWikipedia英語版《The Dream of the Fisherman’s Wife》に、《Dona i Pop》 (カタルーニャ語, 英訳”Woman and Octopus”) (1903), private drawingという女と烏賊のような蛸が描かれた作品が掲載されている。もう一作、バルセロナのピカソ美術館には紙に色鉛筆などで描かれた《Le Maquereau(鯖)》(1903)が所蔵されている。これは先の《Dona i Pop》によく似た作品だ。 両方ともあきらかに北斎の《海女と蛸》を髣髴とさせる作品だ。

さらに、この美術館のサイトによれば、2009年11月から2010年2月にかけて「Secret Images. Picasso and Japanese Erotic Prints」と題する展覧会が同館で開催されていたことがわかった。浮世絵版画とピカソ作品との関連を明らかにする展示で、全体像はこのサイト上で現在も閲覧できる。会場風景として撮影しているため詳細は見えにくいが、作品にとしては、ピカソ作品はほぼ銅版画やドローイング、浮世絵の方は春画のほかに美人画や絵本の類、名所絵とその制作過程などのほか、版木や絵の具など、木版画の道具も展示されていてる。とにかく春画はかなり引いて撮影していて判別がつきにくいものが多いが、会場内で使われていたと思われる説明内容や、ゆったりと着物を羽織って寛ぐピカソの写真からも、彼のジャポニスムや浮世絵版画への傾倒ぶりは明らかだ。何しろ展示している浮世絵がピカソのプライベートコレクションだというのだから、これ以上の証拠はないだろう。

バルセロナは1895年、ピカソが10代半ばで移り住んで以来パリに移住後も含めてたびたび往き来していた土地だ。ピカソ美術館はスペインとフランスに5館も存在するが、そういう縁もあってバルセロナはピカソの存命中に早々に開館されたのかもしれない。

存命中と言えば、ピカソや北斎に関しての著書が多い美術評論家の瀬木慎一は生前、ピカソと個人的に親しく交流があったことで知られている。ピカソが北斎に共感し、北斎が自らを「画狂老人」と呼んだことを自分にも重ねていたとのはなしもどこかで見かけた。ピカソの日本文化への興味、当時のジャポニスムへの傾倒ぶりなど、瀬木慎一の書籍には詳しく書かれているのだろうが、ebookになっていない著書がほとんどで、現状では確認できないのが残念だ

<参考サイト>
Museu Picasso, Barcelona Exhibition「Secret Images. Picasso and Japanese Erotic Prints
05/11/2009 – 14/2/2010」
https://museupicassobcn.cat/en/whats-on/exhibition/secret-images-picasso-and-japanese-erotic-prints#archivo

Pablo Picasso《Le Maquereau》(1903)
Museu Picasso, Barcelona Inventory number: MPB 50.497
https://museupicassobcn.cat/index.php/en/collection/artwork/le-maquereau

Wikipedia英語版「The Dream of the Fisherman’s Wife」(海女と蛸)https://en.wikipedia.org/wiki/The_Dream_of_the_Fisherman%27s_Wife