サイ・トゥオンブリ

サイ・トゥオンブリ (Cy Twombly) はアメリカ出身の現代アート作家。

1928年ヴァージニア州に生まれ。ボストン美術館付属美術学校、ノースカロライナ州のブラック・マウンテン・カレッジなどに学びながら1951年にニューヨークで初の個展開く。その後南ヨーロッパや北アフリカを旅し、1957年、イタリアを定住の地とする。そして2011年83歳に生涯を終えるまで、50年以上をローマで過ごした。

現在、ボストン美術館でサイ・トゥオンブリの企画展が行われている。
そこで私が最も長い時間を過ごしたのは《Il Parnaso》。この作品は、ヴァティカン美術館「署名の間」のラファエロ・サンティによる一連のフレスコ画のなかの一作で、同名の作品《Il Parnaso (パルナッソス山)》からインスピレーションを得たとされている。

トゥオンブリは、このラファエロ作品の構成をたどっているので、先にラファエロ作品を見てみよう。

Parnaso (1510-1511) Musei Vaticani

ラファエロは、リラ・ダ・ブラッチョを奏でる芸術の守護神アポロを中心に、ミューズたちや「Carpe diem」で知られるホラティウス、『オデュッセイア』のホメロス、『神曲』のダンテなどラファエロの時代(ルネッサンス)までの著名な詩人たちが集う様子を描いている。

一方、下のトゥオンブリ作品もパルナッソス山に集う神々や文学者などが描かれ、ラファエロ作の登場人物は「Apollo」や「SAPPHO」のように名前やイニシャルなどでしるされているため、それを辿ることで両作品の構成の類似がわかる。また、ラファエロ作品が描かれたルネットの下がドアのために半円にはなっておらず、トゥオンブリ作品の中にもドアを枠取りした部分が作品中央下にラフな線で区別されている。そしてそのなかに彼は、3行に改行しながら「Il Parnaso/Cy Twonbly/1964」とタイトルと署名をしている。

Il Parnaso (1964) Cy Twombly Foundation

この作品を前にした最初のインパクトは、トゥオンブリが作品のなかにいる印象。《Il Parnaso》を描くトゥオンブリは、ヴァティカンのラファエロ作品のパルナッソスの芸術界に身を投じ、一方でキャンバスに向かって、パルナッソスの芸術界にいる自らも含めて描いたように見える。

サイ・トゥオンブリの作品の多くは抽象ながら一見して美しいと感じる。彼のインスピレーションの基本になるものは、学生時代から興味をもっていた古代ギリシャ・ローマの遺産(遺跡・遺品)。MFA付属美術学校時代もMFAに展示された古代の彫像や遺跡の破片をみるために足繁く通っていたことが今回の展覧会の中でも語られている。

そして遺跡や遺品を巡る旅のなかでローマに拠点を得たことによって、彼は自らのインスピレーションの源にドップリと浸かった創作人生をおくることになる。なんと幸せなことか! 古代ギリシャ・ローマ文化、文字ーグラフィティへの関心と、顕著な繰り返しへのこだわりや独自の(わずかな)色の法則などは、見る側にとっては彼のメッセージに触れる大きなヒントとなる。

トゥオンブリが「自らの言語」で語る時、何のためらいもみえない。グラフィティのように、あるいは色や動きで画面上に表現されるものはすべてが彼の一部となって、非常に早いスピードで迷いなくアウトプットされる。作品は既に彼の中で完成されているのだ。そうした彼の創造の跡を辿るうち、彼が作品の一部としてそこに存在しているように感じる。

そして、その勢いと空(無)とのバランスが、明瞭さと美しさを感じさせるのだ。

参考サイト
Cy Twombly, Il Parnaso, 1964
https://www.mfa.org/exhibition/making-past-present-cy-twombly

Raffaello Sanzio, Il Parnaso
https://www.museivaticani.va/content/museivaticani/it/collezioni/musei/stanze-di-raffaello/stanza-della-segnatura/parnaso.html

長登とファン・ゴッホとジャポニスム

ウェブ検索によれば、貞斉泉晁作の錦絵《尾張屋内長登》は2つの美術館で所蔵が確認できる。ボストン美術館に2点、もう1点はアムステルダムのファン・ゴッホ美術館。

ファン・ゴッホ美術館(以下VGM)はフィンセント・ファン・ゴッホ作品の展示公開を目的に1973年に開館した。1890年の画家フィンセントの死後、彼の作品などは弟のテオ、その妻を経て夫妻の息子フィンセント・ウィリアム・ファン・ゴッホ(伯父と同名)に相続されていた。作品をまとまった形で保管・公開したいというこの甥フィンセントの意思によりファン・ゴッホ美術館財団が設立され、オランダ政府が出資して美術館が建設された。ファン・ゴッホ作品のほか交流のあったポール・ゴーガンやトゥールーズ=ロートレック、彼が好んで模写をしていたバルビゾン派のミレーの作品なども所蔵する。ちなみに今年2023年、同館は50周年を迎えるとのこと。

VGMによれば、彼が1886−87年に購入した660点の浮世絵版画のうち、少なくとも512点が美術館に所蔵されているという。そして《尾張屋内長登》もフィンセントが収集した浮世絵版画の1つだったのだ。

Van Gogh Museum (公式サイトより)

1886年フィンセントはパリのアートディーラーのマネージャーとして働くの弟テオ宅に居候を始める。このころフィンセントは、通っていた画家フェルナン・コルモン(Fernand Cormon, 1845–1924)の画塾やテオを通して、モネやトゥールーズ=ロートレックなどの印象派の画家たちと出会う。そしてファン・ゴッホ兄弟は、1870年から浮世絵版画と工芸の店を経営していたジークフリート・ビングから浮世絵版画を買い始めるのだ。

同年の5月に刊行された雑誌『パリ・イリュストレ』の日本特集はシャルル・ジロが編集長を務め(馬淵,2011)、林忠正の論考や歌麿、春栄、豊国、北斎の図版が掲載された。これもフィンセントに多大な影響を与えたといわれている(神津,2017)。ビングについては以前ベルト・モリゾ関連で触れたが、もう少し先の1888年5月に『芸術の日本』を創刊している。1891年4月まで続いた月刊誌でフランス語、英語、ドイツ語の3カ国語で出版された。各号の表紙は絵画や浮世絵がカラー印刷され、論文1本と10点の色刷り複製版画が含まれたものだった(吉田,2014)。こうした質の高い出版物の数々からも、当時のジャポニスムの潮流の大きさがうかがえる。

フィンセント・ファン・ゴッホの作風は1886年以降、著しい変化が見られる。パリで出会った印象派や浮世絵に触発されたことはいうまでもない。そのうえこの1886−87年は、絵の具の質が大きく向上した時期でもあった(秋田,2019)。つまり、土由来のくすんだ色から鮮やかな色彩表現が可能になったことは「日本のような明るさ」を描こうと鮮やかな色を必要としたファン・ゴッホにとって、とても幸運なことだったのだ。

こうして描かれたフィンセントの浮世絵版画と日本への熱狂は、色彩豊かな作品によって今や誰もが知るところ。浮世絵から受けた豊かな色と明るい印象を日本そのものに重ね、地中海性気候の南フランス・アルルを日本に見立てて引っ越したのはそれから約2年後のことだ。

フィンセント・ファン・ゴッホは彼にとって異文化そのものだった浮世絵版画を自らの技術とアイディアに昇華し、独特のスタイルを確立した。独創的な解釈、彩度の高い絵の具使いや大胆な筆致で描かれた晩年の作品が国境を越えて多くの人々を魅了するのは、それらの作品の一つ一つに「庶民の芸術」と呼ばれた浮世絵版画の魂が受け継がれたからなのかもしれない。

参考文献
秋田麻早子 2019「絵を見る技術ー名画の構造を読み解く」朝日出版社
神津有希編 2017「北斎の受容およびジャポニスム関連年表」『北斎とジャポニスム HOKUSAIが西洋に与えた衝撃』国立西洋美術館 読売新聞東京本社 pp.314-323
吉田典子 2014「ベルト・モリゾと日本美術(2):麦わら帽子の少女における浮世絵の画中画について」『Stella』33, pp.213-236.  Société de Langue et Littérature Françaises de l’Université du Kyushu

参考サイト
馬淵明子『フランス人コレクターの日本美術品売立目録』紹介サイト
https://www.aplink.co.jp/synapse/4-86166-059-7.html

「Van Gogh Collects: Japanese Prints」Van Gogh Museum
https://www.vangoghmuseum.nl/en/japanese-prints

「Biography, 1886 – 1888 From Dark to Light」Van Gogh Museum
https://www.vangoghmuseum.nl/en/art-and-stories/vincents-life-1853-1890/from-dark-to-light