尾張屋内 長登

令和4年最初の錦絵は《尾張屋内長登》。

桜の下、禿を引き連れて歩く尾張屋の花魁長登。肩から袖にかけては眼光鋭い龍に抱かれ、裾からは猛々しい虎が花魁を見上げるという人目を奪う打ち掛けを纏っている。古来から縁起が良いとされる竜と虎。おそらく金糸などで立体的に刺繍されたものと想像する。竜や虎、鳳凰など力や格を表す柄は花魁の打ち掛けとして好まれたもの。金の光を放つ大胆な柄が黒地に生えて美しい太夫が纏えば粋の極みであっただろう。

打掛けとは対照的に、掛下は白地に青の花菱紋や蔦柄が描かれたやさしく清々しいもの。紗綾形のエンボスも施されて豪華さが増している。エンボスは半襟と頭上の桜にも使われている。前結びの帯もまた可憐な八重桜。簪の飾りはかたばみのようだ。個性的なデザインを甘辛とりまぜてバランスのよい豪奢で完璧なコーディネート。花魁の掛下と白地に青にあわせた禿の髪飾りも菱にかたばみのようにみえる。長登のほかの錦絵では、この文様が打掛けの背紋に使われている*ので、長登の紋だと考えられる。

尾張屋内長登 BlueIndexStudio所蔵

ところで、このサイトBIS所蔵版には落款、版元印、改印がない。図柄を元にGoogle検索した結果、ボストン美術館(以下MFA)とヴァン・ゴッホ美術館(以下VGM)に酷似の錦絵が所蔵されていることがわかった。
BIS版の真偽は不明であるとお断りしたうえで、貞斎泉晁画《尾張屋内長登》をみていこうと思う。

貞斎泉晁は1812(文化9)年生まれで没年は不詳。渓斎英泉の弟子で美人画を得意としていた。MFAは泉晁の活動年を1830−1850年、作品制作年は江戸期というにとどまっている。VGMは制作年を1835-1839年頃としている。
版元は耕書堂(蔦屋吉蔵、南伝馬町一丁目)。改印は極で、極印単独の第二期(1815−1842年)と考えられ、MFAによる泉晁の活動年を考慮しても1830−42年が制作と考えられる。VGMの制作年1835−39年もここに含まれる。
花魁と禿が着飾って歩く姿は大変人気のテーマで、多くの絵師が競って使った画題だ。泉晁もこれと同じようなレイアウトでシリーズ化し、ほかの花魁も描いている。また長登自身も泉晁のほか渓斎英泉による錦絵も多く残っている。彼女の人気のほどもうかがえる。

尾張屋内 長登(江戸時代)貞斎泉晁
MFA Accession Number: 11.37466

制作時期の参考に『吉原細見』も検索してみた。資料が見つかったのは1834(天保5)年、1836(天保7)年、1837(天保8)年、1842年(天保13)年、1844(天保15)年の5年分。前後余裕を持って確認してみた。これらの資料の「尾張屋」の欄のすべてに「長登」がみられた。このことで、同時期に尾張屋に長登が存在したことは確認できた。

BIS版は桜のうえに黒のぼかしがあって夜桜のような印象だが、他のMFA版やVGM版にはぼかしはない。BIS版は打掛けの色も紫の褪色というよりは元来藍が使われたのではないかと想像する。そして絵師の落款や版元印、改め印はなく、ちょうどそれらがあるべき位置に墨をこぼしたようなシミがある。墨のたまりとにじみの染み具合は古さを感じる。

さて、落款、版元印、改印がないということは何を意味しているのか。錦絵の場合はそうした印は黒摺り部分のデザインといっしょに版木に彫り込まれるのが普通。もしオリジナルの版木を使いながら印を摺りたくないとしたら、意図的に摺らない方法が必要になる。つまり印の部分だけを版を潰したりするということだ。真作をもとにして新たな版木を用意して摺ることも可能だろう。明治あたりはまだ腕のいい浮世絵職人はたくさんいたはず。
ところで改印制度は明治8年を最後に撤廃される。つまり明治9年からは錦絵出版に規制がないのだ。

通常版木は版元が指定する枚数を摺ったあとは版を潰して新たな版に再利用されるといわれる。それができないほど使い込んだものは薪になったそうだ。オリジナル錦絵をもとに新たな版木を彫り、摺って売りだすに値するような際立った特徴と人気の錦絵にも見えず、手間と諸経費からも割に合うとは思えない。まだ潰す前の版木を何らかの形で手に入れて、印の部分を潰して摺った一枚と考えるほうがまだ現実的な気がする。

<参考文献>
石井研堂 1920「錦絵の改印の考証:一名・錦絵の発行年代推定法」伊勢辰商店

<参考サイト>
「Nagato of the Owariya, from an untitled series of courtesans under cherry blossoms 尾張屋内 長登」ボストン美術館
https://collections.mfa.org/objects/462140/nagato-of-the-owariya-from-an-untitled-series-of-courtesans?ctx=be5f8e1c-867c-43ba-bf58-6d99b7e78a69&idx=1

*「Evening Bell at Mii-dera Temple (Mii no banshô): Nagato of the Owariya, No. 1 from the series Eight Views in the Yoshiwara (Yoshiwara hakkei) 吉原八景 一三井の晩鐘 尾張屋内 長登」ボストン美術館
https://collections.mfa.org/objects/216876

「The Courtesan Nagato of the Owari House, from an untitled series of courtesans under cherry blossoms」ヴァン・ゴッホ美術館 アムステルダム
https://www.vangoghmuseum.nl/en/japanese-prints/collection/n0450V1962

1834(天保5) 「吉原細見」蔦屋重三郎 早稲田大学古典籍総合DB
https://waseda.primo.exlibrisgroup.com/discovery/fulldisplay?docid=alma991021076419704032&context=L&vid=81SOKEI_WUNI:WINE&lang=ja&search_scope=MyInstitution&adaptor=Local%20Search%20Engine&tab=LibraryCatalog&query=title,contains,%5B吉原細見%5D&offset=

1836(天保7)「吉原細見」蔦屋重三郎 早稲田大学古典籍総合DB
https://waseda.primo.exlibrisgroup.com/discovery/fulldisplay?docid=alma991021077239704032&context=L&vid=81SOKEI_WUNI:WINE&lang=ja&search_scope=MyInstitution&adaptor=Local%20Search%20Engine&tab=LibraryCatalog&query=title,contains,%5B吉原細見%5D&offset=0

1837(天保8)「吉原細見」伊勢屋三次郎 早稲田大学古典籍総合DB
https://waseda.primo.exlibrisgroup.com/discovery/fulldisplay?docid=alma991021077379704032&context=L&vid=81SOKEI_WUNI:WINE&lang=ja&search_scope=MyInstitution&adaptor=Local%20Search%20Engine&tab=LibraryCatalog&query=title,contains,%5B吉原細見%5D&offset=0

1842(天保13)「吉原細見」星野屋源次郎 早稲田大学古典籍総合 https://waseda.primo.exlibrisgroup.com/discovery/fulldisplay?docid=alma991021078079704032&context=L&vid=81SOKEI_WUNI:WINE&lang=ja&search_scope=MyInstitution&adaptor=Local%20Search%20Engine&tab=LibraryCatalog&query=title,contains,%5B吉原細見%5D&offset=10

1844(天保15)「吉原細見」星野屋源次郎 早稲田大学古典籍総合https://waseda.primo.exlibrisgroup.com/discovery/fulldisplay?docid=alma991001473209704032&context=L&vid=81SOKEI_WUNI:WINE&lang=ja&search_scope=MyInstitution&adaptor=Local%20Search%20Engine&tab=LibraryCatalog&query=title,contains,%5B吉原細見%5D&offset=0

アルテミジア・ジェンティレスキ

17世紀のイタリア人画家アルデミジア・ジェンティレスキ(Artemisia Gentileschi)の作品がボストン美術館(MFA)のロトンダに現れた。

The Sleeping Christ Child(1630-32)Artemisia Gentileschi
MFA accession numb
er:2022.102

《眠る幼子キリスト》。12.4 × 17.5 cm の銅板に油彩で描かれている。絵はがきサイズだ。クッションに頭を預けて無防備にあどけなく深い眠りの中にいる幼子イエス。なんともいえない愛おしい姿である。この稀に見る珠玉の小品を初めて見かけたときには、うれしさのあまり自分のほおが緩むのを抑えきれなかった。

以前この作品がオークションに出るという記事を見たことがあった。そのときはこの作品を元に制作された別の作家によるエングレービング作品《死の寓意》が添えてあった。版画の方は幼子のそばに頭蓋骨が置かれ、天使のように美しく幼い子どもにも何れ死は訪れるという、いわゆるメメント・モリをテーマにした作品だ。

Allegory on Death (制作年不明)  Jode II, P. de (1601-1674).
Engraving after Artemisia Gentileschi

版画は量産可能であるから人の目に触れる機会も多い。それでこちらが先に有名になったらしい。元となったジェンティレスキ作の幼子キリストは頭蓋骨を伴っておらず、眠る幼子の姿は生き生きとして、小さな胸の動きや静かな呼吸が聞こえてきそうだ。

まだ女性画家が少なかった時代、画家オラツィオ・ジェンティレスキ(Orazio Gentileschi)の娘として生まれたアルテミジアは絵の天分とそれを家庭内で磨く幸運を得た。父親がカラヴァッジョと親しかったため、その技法を間近で学んだという点で、後に連なるカラヴァッジョに私淑したカラヴァッジョ派とは異なる。彼女の作品の明暗対比の強いテネブリズムやドラマティックで躍動感あふれるな画面構成などにその特徴は明確に現れている。

当時の創作現場はほぼ完全に男社会であり、とりわけカラヴァッジョの素行の悪さは有名だが、当時はそういうタイプの画家は少なくなかったようで、カラヴァッジョと親しかった父親周辺も悪評高い人間が取り巻いていたらしい。そんな中で娘である17歳のアルテミジア自身もセクハラの被害者となりレイプ裁判を起こしたことから、本業以外でも後世まで名が知れることになる。それでも彼女は描き続け画家としてのキャリアを高めていく。創作作業というのは何につけ重労働が多い。ロンドンでは父オラツィオの制作を引き継ぐ形とはいえ直径5メートル近くの天井画(キャンバスに油彩したのち板張り)などにも取り組んでいる。

アルテミジアの自画像を見ていると彼女は確かに現実社会に存在し、自己主張し、閉鎖的で理不尽な社会の壁を打ち破るべく戦った女性だと感じる。例えば、時代はかなり進むが18世紀にフランスに現れる女性画家ヴィジェ=ルブラン。マリー・アントワネットのお気に入りとなり爛熟のロココを強かに生きたようだが、嫋やかでファッショナブルな浮世離れした自画像をみると時代と文化環境の違いは大きいが、ここまで時代が経過しても女性画家は僅かだったのだ。

アルテミジアの作品は、テーマや画面構成、表現の細部に至るまで彼女の意思と肉体の強靱さが作品に憑依しているようで、見る者に強く訴えてくるもののがある。そんな彼女の繊細さと愛情深い眼差しが作り上げた小さな宝石のようなこの一作。
アルテミジア・ジェンティレスキは心身共に強く、そして美しい画家だったに違いない。

参考サイト
Artemisia Gentileschi 1630-32《The Sleeping Christ Child》ボストン美術館
https://collections.mfa.org/objects/699323/the-sleeping-christ-child?ctx=0b6bdc9a-fe6d-4495-b1ce-7fc547bdb0ab&idx=0
Letizia Treves 2016 「Caravaggio: His life and style in three paintings」National Gallery of London https://www.youtube.com/watch?v=1KcdgFxmnb4
Orazio Gentileschi&Artemisia Gentileschi 1635-8 《An Allegory of Peace and the Arts》RCIN 408464, Royal Collection Trust
https://www.rct.uk/collection/408464/an-allegory-of-peace-and-the-arts
La Gazette Drouot: Jode II, P. de (1601-1674). Allegory on Death
https://www.gazette-drouot.com/en/lots/13709170-jode-ii-p.-de-1601-1674