浮世絵版画の伝播2

前回、浮世絵版画がどのように海を渡って伝搬されたかについてボストン美術館キュレーター、セーラ・E・トンプソン氏の見解から探ってみた。

トンプソン氏は一般にもよく認知された「陶磁器輸出の梱包材説」の元となったであろう美術史家レオンス・ベネディット(Léonce Bénédite, 1859-1925)の記録を自らの経験も含めて解釈した結果を述べていた。その際トンプソン氏は、年代についても独自の見解を示していた。

それは、版画家・図案家フェリックス・ブラックモンが印刷職人オーギュスト・ドラートルの工房で『北斎漫画』の一冊に遭遇したという事実はベネディットの記憶する1856年ではなく、1859年の出来事ではないかというものだ。

その根拠は、1858(安政5)年10月9日(グレゴリオ暦)に日本フランス間で日仏修好通商条約が締結されているということ。この点からトンプソン氏は1856年ではなく「1859年のことであるとするほうがもっともらしく思われる。」と記している。

美術史家ベネディットはこの事を1905年になって発表している。つまり約50年の年月が経過しているわけだ。通商条約締結後と考える方が確かに無理がなさそうな気がする。

浮世絵版画の伝播

「国芳・国貞展」のカタログに寄せられたセーラ・トンプソン氏の文章の中で、浮世絵版画のヨーロッパ伝播についても綴られている。

浮世絵は遅くとも18世紀後半にはヨーロッパにもたらされていた。しかしヨーロッパの芸術家の目に触れ始めたのは19世紀半ばまで待つことになる。1858(安政5)年、日本はアメリカ・イギリス・フランス・ロシアとそれまでも通商関係にあったオランダを含む5カ国と通商条約を締結して開国。これによって通商は活発化し、浮世絵のヨーロッパへの上陸量も増えたのだろう。

1905年に発表された美術史家レオンス・ベネディット(Léonce Bénédite, 1859-1925)の記事はフランス人芸術家と浮世絵版画の最初の出会いとしてよく知られている。
版画家で図案家のフェリックス・ブラックモン(Félix Bracquemond, 1833−1914)は印刷職人オーギュスト・ドラートルの工房で、ドラートルのところに日本から届いていた磁器製茶器を収めた木箱の中にあった『北斎漫画』に出会ったというものだ。

トンプソン氏は、この時の『北斎漫画』がどのような状態で箱の中にあったかについて次のように述べている。

  「おそらく木箱の角の小さな隙間に詰めることで、藁で包まれた陶磁器をしっかりと元の位置に留めるためためのものであった。(筆者の見解では、浮世絵版画が輸出される陶磁器の梱包材として使用されたというのは、おそらく広く知れ渡ったこの逸話に基づく誤解である。事実、そういった習慣に関する直接的な証拠はこれまで一つも見いだされていない。)」

つまりトンプソン氏は、浮世絵版画は器などを直接包むためというよりは、そうしたものを木箱の中で固定するために隙間を埋めるために使われていたのだろうと理解している。

浮世絵版画が陶器の緩衝材としてヨーロッパに上陸したという話は個人的にも相当昔から記憶にあった。そのイメージは例えば、有田焼の器を浮世絵版画で“包んでいた”という感じ。本やTVのドキュメンタリーなどで見た記憶かもしれない。

しかし浮世絵版画の動向に目を向け始めてからこのかた、何かを包んでいたような形跡を残した作品を個人的にも見たことがなく、長い間疑問を抱いていたのだった。というのも色刷りの紙についた皺を存在がなくなるまで伸すにはそれなりの手間と技術が必要で、容易なことではないと思うからだ。

トンプソン氏の見解のように、浮世絵版画が隙間を埋めるために使用されたとなれば、茶碗を包んでできるような皺に比べれば平な形状で海を渡ったはず、フランスの芸術家や好事家に見出されやすい状態だったに違いない。

参考文献
Museum of Fine Arts Boston 2016『ボストン美術館所蔵 俺たちの国芳わたしの国貞』光村印刷 p.212-213