「頓兵衛娘於ふね」の裏面

《頓兵衛娘於ふね》は「神霊矢口渡」に題材をとった役者絵。以前、芝居番付チェックした作品だ。この作品には裏打ち(裏張り)がある。

一勇齋国芳画「頓兵衛娘於ふね」(裏面) BlueIndexStudio所蔵

神奈川県の公用紙、薄手のかみながら「神奈川県下」と印刷されている。裏打ちは主に作品の中心部。表の錦絵の「於ふね」がうっすら透けて見える。
内容は大まかにはこんな感じ。

農車検◻願
南多摩郡南桑田村下田
㐧(第)八番地
一、農車一輌 新保富…*
右は今般新調仕候…*
相成度候也

明治25年2月1日 新保富…*

神奈川県知事内海忠勝
前書の通り相違い無し互也…*
南多摩郡南桑田村…*

明治25年2月1日 斉藤文太郎


◻印のところは「原」に見えますが、それでは意味が通らない。
*印のところは紙が裂かれていて続きが不明。

この裏打ちに使用された紙は、農業用車輌(農業用トラクタのようなものでしょうか?)の県への届け出の下書きかと想像している。

錦絵《頓兵衛娘於ふね》は1848(嘉永元)年の作品とわかっている。裏打ちに使われた紙に明治25(1892)年の日付があるため、この錦絵はそれ以降に裏打ちされたことになる。
用紙が使用地が限定されるものであり、海を渡る前に作品の補強がなされたと考えるのが自然だろう。

作品が世に出てから裏打ち用紙の日付まで44年。反古紙を使用したとはいえ、やはり障子の張り替えなど行っていた時代の人は現在よりずっと紙の扱いに慣れているようだ。

この錦絵が江戸の絵本問屋の店先にならび、江戸っ子の楽しみか、巡礼途中の物見遊山の土産物か、人の手を経て今日まで。今の状態から想像するに、170年以上本国でも異国でも大切にされてきた幸運な一枚だ。



芳瀧 晩年の活躍

なんと、芳瀧デザインのアサヒビールの広告が存在するのだ。

アサヒビール公式サイトより
https://www.asahibeer.co.jp/area/07/27/sakai/komakichi_vol04.html

天の岩戸から現れるアサヒビールを神々が寿ぐ様子が描かれている。
そして右上、旗に見立てた枠の中に「波に朝日」の図柄の登録商標。これはビールのラベルデザインの原型となって昭和まで使われたものらしい。

有限責任大阪麦酒会社(現・アサヒビール株式会社)は1889(明治22)年創立。明治25年の広告デザインを通して芳瀧と、社長の鳥居駒吉、取締役の宅徳平らとの親交が始まった。
当時の芳瀧の大阪での交友については、まえに話した弟子で娘婿である川崎巨泉が書き残していることが、以下の森田 俊雄(2009)によって指摘されている。

「情歌とは「よしこの」と読み幕末から明治に大阪で流行したよしこの節のことである。巨泉は雑誌『上方』(昭和 10 年 10 月号)に「アサヒビールと情歌」を書いたが、これは芳瀧が 1892(明治 25)年に大阪錦画新聞 アサヒビールの朝日に波のラベルを描いた縁で、その頃情歌がはやっていたので平瀬露香、 鳥居駒吉、宅徳平、北村柳也を撰者に旭、麦酒、吹田(筆者注:現在の大阪府吹田市の事) を題にして一般から情歌を募ったという話である。「昔むりやりこらえた苦味今は吹田の旭ビール」などの歌が紹介されている。」

この「よしこの節」というもの、今回はじめて知った。晩年の芳瀧は絹本や戯作・狂歌なども良くしたとのこと。幕末から明治へと生活様式も大きく変化するなかで、芳瀧の柔軟な感性と人脈が晩年の創作活動を後押ししたようだ。

それにしてもアサヒビール。今や世界で飲まれているビールだ。その誕生の一端に手元にある錦絵《妹背山婦女庭訓》の絵師の活躍があったとは。

遠い昔だと思っていた明治が少し身近に感じられる発見であった。

<参考文献>
森田 俊雄 2009「おもちゃ絵画家・人魚洞文庫主人川崎巨泉(承前) ―浮世絵師からおもちゃ絵画家への軌跡― 」『大阪府図書館紀要』(38)大阪府

さくら、さくら…

春先おひさまが機嫌よく顔を出し始めると、頭に浮かぶのはやっぱり桜、さくら、サクラ。

日本の春の話題は何をおいても桜。でも、国を離れていても日本人の間では春の会話はやっぱり桜だ。3月帰国などど口にしようものなら、「いいなぁ、お花見!」200%の確率でこういう返事がかえってくる。どこかで桜が見られるという話題は、たとえ初めて会った日本人同士でもかなり盛り上がる話題。

日本人同士というのは意外と人見知りというか、海外で同郷の人を見かけても気軽には近づかない。これは親しい長期在住者のなかでは皆同意見だ。それなのに桜の話しになると例外だ。心のバリアが外れるのだろうか。

2019年4月 花曇りの日

桜の花見は時期が多少ずれるだけで日本中で経験できる国民的行事。何しろ日本国内津々浦々、ソメイヨシノだけではなくそれぞれの土地の気候に合ったさまざまな桜がみられるのだから、これは世界的にもなかなか珍しいことかもしれない。

そしてその楽しみ方も、一人でも大勢でも、子どもも大人も性別に関わらず、お財布の中身にあった予算で(あるいは何もなくても)、とにかく桜に近づくだけで、春の柔らかな空気とほのかな甘い香りに包まれることが出来る。そして不思議な高揚感を味わえるのだ。

今のお花見スタイルが確立したのは江戸時代といわれている。錦絵、特に風景画と美人画で多くのお花見風景が描かれている。当時、貴賤問わず老若男女が楽しめる娯楽の場として、幕府主導の植樹が江戸の各地で行われた。それが全国に広がり、今や海を超えてアメリカは首都ワシントンのポトマック河畔や、さまざまな州にもたらされている。

春になると日本人はどこにいても桜を探す。つぼみから開花、風に吹かれ、雨に打たれ、散り始めても散って水面を漂っていても…どんな瞬間も美しい。他国の人たちも一度桜を見るとまた見たくなるらしい。

桜の開花を待つ甘やかな心のざわめき…

少し魔性めいているかも…桜の花には人を引きつける特別な魅力がある。

堤の夜桜の花見美人

お正月に掲載した錦絵。

豊国画 BlueIndexStudio所蔵

作品名:堤の夜桜の花見美人(つつみのよざくらのはなみびじん)
板元:馬喰町三丁目 江﨑屋辰蔵
落款・押印:香蝶楼豊国・年玉印
絵師:豊国III(国貞、自称2代目豊国)
改印:村 1843(天保14)年〜1847(弘化4)年
出版時期:1844(弘化元)年〜1847(弘化4)年

この作品はボストン美術館にも収蔵されている。おかげで3枚続きの1作とわかった。
手元の作品はそのなかでも特に満開の桜の木が多く描かれている。一方、他の作品には対岸や川に浮かぶ船、中洲もみえて、夜桜名所の隅田川堤であることが一目瞭然だ。
改印は3作とも同じなので出版時期は近いようだ。板元も同じ。ただ署名は、下の左1作だけ「国貞改二代豊国画」と記されている。

Women Viewing Cherry Blossoms at Night on the Riverbank(1843–47)
MFA: 11.15819-21

そして真ん中と手元にある右側に置かれる作品が「香蝶楼豊国画」の署名。
国貞の豊国襲名は文献上1844(弘化元)年とされている。「二代」と自称していたが実際は三代目。3枚のうち襲名をアピールする「国貞改二代豊国画」署名の作品が最初に出版された可能性は高い。そしてこの連作は豊国を襲名してまもない頃に出版されたのではないかと推測され、出版年の仮定は1843年からではなく、1844年12月から始まる弘化元年から1847(弘化4)年考えられないだろうか。

同じ板木の作品がオンライン上で見つかると、画像を拡大して版に刷られた木目を見たり色の違いを見たりといろいろな比較ができる。特に海外の美術館はコレクションをデータベース化してオンラインで閲覧できるようになっているところがかなり多い。その点ではありがたい時代になったとおもっている。


<参考文献>
石井研堂 1920「錦絵の改印の考証:一名・錦絵の発行年代推定法」伊勢辰商店
小林忠・大久保純一 2000「浮世絵の鑑賞基礎知識」至文堂

<参考サイト>
「Women Viewing Cherry Blossoms at Night on the Riverbank(堤の夜桜の花見美人)」Museum of Fine Arts Boston(3/21/2021閲覧)
https://bit.ly/3f64VgX

妹背山の謎解き、作戦変更

芳瀧の謎解きについて、今日は違う角度から考えてみた。

ここまで報告してきたとおり、芳瀧の妹背山は改印がなく、現状では役者番付も主要美術館での所蔵の形跡もなく、頼みの綱のデータベースも早稲田大、立命館大とも手がかりなし!
オンライン頼みの私には、なかなか厳しい状況だ。

ここは基本に立ち返り、芳瀧の作品そのものから手がかりを得る作戦に移ろうと思う。

まずこの作品の特徴。

1)登場人物が多い
2)登場人物は役の中のような衣装や小物を持ってポーズをとっている
3)縁側や欄干、その奥には松が見えるなど、劇中の一場面のような背景
4)全体の配色が赤・青・黒を基調としているが、なかでも青が特に多い
5)画面の縁に青と紙の地色を一定の間隔で交互に並べることで四面が縁取りされている
6)画面上部、ツートンの縁取りと一文字ぼかしのあいだに御簾が描かれている。
7)外題、絵師落款、版元とそれぞれの配役・役者名は、全て赤色の短冊状に表示されている

まずは芳瀧作品をしっかり見て、こんな特徴を持つ作品を集めてみるとしよう。

芳瀧の『役者評判記』

今日は芳瀧編集の『役者評判記』。
ここから芳瀧の足取りをつかもうという試みだ。

役者評判記とは歌舞伎役者の技芸を評価した書物。江戸・大坂・京と3都市で別々に出版されていた。始まりは歌舞伎が盛んになった1600年代の終わり頃からで、明治中期頃まで続けられた。

芳瀧の動向を検索するなかで、中井恒次郎名による役者評判記が出版されていたことが分かった。参考にした明治期上方板役者評判記一覧(日置 2011)によれば、明治11年に大坂で2件、明治12年は大坂の1件と京都の2件で合計5件が芳瀧編集によるものとされている。

私のオンライン検索で実物の画像が閲覧できるのは早稲田大学古典籍総合データベースの明治11年の大坂の角座と戎座のデータだけ(2021/3/14現在)。

こちらが角座の『俳優評判記』。せっかくなのでちょっと拝見。

「俳優評判記 / 中井恒次郎 編輯」早稲田大学図書館蔵 #チ13 03849 0124
「俳優評判記 / 中井恒次郎 編輯」早稲田大学図書館蔵 #チ13 03849 0124

内容は段(幕)ごとの評から始まり、中程に行くと番付の頁がある。
名前の一番上に書かれた太文字、右から順に高位で、「大上上吉」「至上上吉」「極上上吉」「真上上吉」「上上吉」と続く。
たとえば最上位の「大上上吉」は立役の市川右團次。「きかい(機械)のわざ(技)はたぐいなき造幣場」と書かれている。タイトルが「見立作花名所」というだけあって、役者の番付を大坂の桜の名所番付に見立てているわけだ。
真ん中あたりの番付で「真」や「至」の文字が白抜きになっていたり、画数が足りなかったりしているのは、力不足を表しているのだとか。漢字文化圏の私たちには確かにわかりやすい。しかも少し笑える。
番付のあとは役者ごとの評になっている。

さて本題に戻って、芳瀧情報が期待できる奥付を見てみよう。

「俳優評判記 / 中井恒次郎 編輯」早稲田大学図書館蔵 #チ13 03849 0124

最初に「第一大区八小区尾三丁目  編輯(編集)者 中井恒次郎」。そして最後に「明治11年4月18日届」とある。

まずはじめの住所、大坂のもので廃藩置県のあと明治政府が短期間定めた大区小区制の時代のものだ。この地方制度は1871(明治4)年に発布され、1878(明治11)年の廃止された。このことから、この評判記は制度廃止直前に出版され、さらにその時点で中井恒次郎は大坂在住であったことが分かった。

中井恒次郎は芳瀧の本名で、中井は生まれ持った姓。
これまでのとおり問題の《妹背山婦女庭訓》は笹木芳瀧と署名がある。笹木姓についてはさまざまな文献で「1874(明治7)〜1875(明治8)ころに芳瀧が継いでのちに弟に譲った」という曖昧な文章で書かれているのをたびたび見かける。芳瀧作品における笹木署名作品の少なさを考慮しても笹木姓を名乗っていた期間はごく短い年月だったのではないかというのが私のこれまでの推論だ。

さて、ここまでのまとめ。
1)芳瀧の動向について。
前回までの芳瀧の略歴で、1880(明治13)年に京都に移住したという記録があったが、それ以前の居住地が不明だった。この奥付の住所によって京都への移住前は大坂在住であった可能性が高くなった。
2)中井姓について。
この奥付によって、1878(明治11)年4月18日の段階で芳瀧は中井姓であることがわかる。1874(明治7)〜1875(明治8)ころに芳瀧が笹木姓を継いだのは文献上明らかなこととして、1878(明治11)年のこの時点で中井であるということは、この時点で芳瀧の姓は笹木から中井に戻っていることになる。
3)役者評判記の役者たち。
この評判記では芳瀧作品に度々描かれている上方の役者が名を連ねていた。このことは芳瀧の地盤が上方であったことを裏付けるものと思われる。


笹木芳瀧画《妹背山婦女庭訓》の出版年については笹木姓の時期を絞り込むことが不可欠だ。
1874(明治7)年から1878年(明治11)年を出版年と仮定し、出版地は大坂。
この2点を基本として調査を継続する。

参考文献
日置貴之 2011「明治期上方板役者評判記とその周辺」『日本文学』60巻12号 日本文学協会p.24〜33
https://ci.nii.ac.jp/naid/130005675842(2021/3/12閲覧)

「俳優評判記/中井恒次郎編輯」早稲田大学図書館
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/chi13/chi13_03849_0124/index.html
(2021/3/12閲覧)

芳瀧の動向

今日は芳瀧の弟子川崎巨泉の資料から芳瀧の動向を見てみよう。

突然登場の川崎巨泉。芳瀧を検索している中で発見した芳瀧の弟子で娘婿となった人だ。川崎巨泉は浮世絵師から郷土玩具画家となり、師匠で義理の父である芳瀧の略歴を残していたことが、川崎が活躍した大阪の府立図書館関係の資料からわかった。以下、その資料をもとにして略歴をまとめてみた。

<芳瀧の略歴>
1841(天保12)年 大坂南区鰻谷に誕生
1853(嘉永6)年 12歳で江戸の芳梅に入門
1855(安政元)年 独立
1874(明治7)〜1875(明治8)年 父の先祖の笹木姓を継ぐがのちに弟に譲る
1880(明治 13)年 京都に移住
1885(明治 18)年 堺に移住
1889(明治22)年 **有限会社大阪麦酒会社創立
1892(明治25)年 *巨泉、13歳で堺市甲斐町に住む芳瀧に入門
        **同年、アサヒビールの「朝日に波」のラベルを描く
1896(明治29)年 *巨泉、画の修行のため上京
1897(明治30)年 *巨泉帰阪。大坂南区鰻谷の芳瀧宅に住む。
1898(明治31)年 *巨泉、芳瀧の娘ハマ子と結婚。婿養子となり芳瀧の仕事を継ぐ。
1899(明治 32)年 春 病床につく。
         同年 6 月 28 日甲斐町て病没。享年 59 歳。

*印は巨泉の動向です。芳瀧の所在を理解するために関連事項を加えた。
**印はアサヒビール創立時の社長鳥居駒吉と取締役宅徳平との交友関係が芳瀧の作家活動に深く関わるものであったため、同地にての活動として加えた。

ところで、以前芳瀧の居場所さがしで閲覧した仲田勝之助編校『浮世絵類考』では京都の住所が記載されていた。今回の資料との照合から、『浮世絵類考』の芳瀧欄は1880〜1885年のデータをもとに執筆されたことが分かった。

芳瀧が江戸で芳梅に入門した後1853年から、1874〜75年の笹木姓の継承と譲渡を含む1880年京都への移住までの27年間、まさに笹木芳瀧画《妹背山》の制作の可能性が最も高い時期が判然としないのが、なんとも悩ましい結果だ。
ただ、全体としてはやはり本拠地上方での活躍の様子が伺えるものだった。


参考文献
長田富作 1943「川崎巨泉画伯略伝」『川崎巨泉画伯遺墨 人魚洞文庫絵本展覧会目録』大阪府立図書館
森田 俊雄 2009「おもちゃ絵画家・人魚洞文庫主人川崎巨泉(承前) ―浮世絵師からおもちゃ絵画家への軌跡― 」『大阪府図書館紀要』(38)大阪府

参考サイト
「おもちゃ絵画家川崎巨泉について:おおさかeコレクション」大阪府立図書館
(2021年3月11日閲覧)
https://www.library.pref.osaka.jp/site/oec/ningyodou-kyosen.html

妹背山…東京公演

今日は《妹背山婦女庭訓》東京興行について。

前回の『浮世絵類考』をもとに考察すると、芳瀧は上方で一生を過ごしたという可能性は高いが、念には念を入れて、東京興行のチェック。

資料は前回利用した立命館大学の「ARC番付ポータルデータベース」による芝居番付を活用する。時期も前回同様、1870(明治3)年から(念のため)芳瀧没年の1899(明治32)年まで。

この期間東京では《妹背山婦女庭訓》が23件の興行された。画像で確認できたデータの内訳は辻番付9件、絵本番付6件です。この他に早稲田大学の演博検索から画像が開けず、番付画像を確認することが不可能だった辻番付が8件あり。この8件に関しては同時興行の外題や月日などの基本データがARCリストの該当ページに記載されていた。そこでこの問題をオンライン上の技術的な問題とみなし、その番付は存在するものとして基礎データに加えた。

ARCリストの使い方についてひとつ。
《妹背山婦女庭訓》の検索は作品名と年代だけで行っているので、この興行の各種番付が年代順に(あれば月日も)リスト化されて出てくる。そのため、表示される番付はどれか一つの番付のこともあれば、いろいろな番付がそれぞれ複数に表示されることもある。番付が印刷物であることの利点だ。実際、個々の番付の保存状態には差があって、印刷画面全体が薄くなっていたり欠損があったりもする。こんなときは資料が多いほど助かるわけだ。
ここで通常通りに画像確認ができた15件に関しては各種番付が複数存在した。時期や役名・役者名を読みとることが目的なので、画像が鮮明で文字が読みやすものを選び、実際にデータ確認に使用したものが上記の辻番付と絵本番付の数値になる。

その結果…予想通り、芳瀧の配役に符合する興行は無かった。

ここまででひとつわかったこと。
前回上方の番付の配役と今回の東京の配役と比べてみると、芳瀧作品に登場する役者の流れをくむ役者は上方の配役のほうが断然多いということ。
もちろんここには未確認の8件が残っていて後日確認できる状態になることを願っているのだが、この未確認の8件は全て1890年以降のもの。1899年没の芳瀧が東京の興行にインスピレーションを得て上方の版元から出版するということは、今回の調査をしてみてやはり無理がありそうに思う。
ここはやはり、芳瀧は上方の役者を元に《妹背山婦女庭訓》を描いたと考えるのが自然だ。

芳瀧の居場所

今日は芳瀧の居場所について。

まだ謎だらけの「芳瀧の妹背山」。気を取り直して、今日は江戸の番付探検をしようと思っていた。しかしその前に、絵師の動向を確認するときの基礎便覧とも言える『浮世絵類考』の確認がまだだったことに気づいた。

ということで今日は『浮世絵類考』で芳瀧の居場所を探った。

私の手元にあるのは1941(昭和16)年発行の仲田勝之助編校『浮世絵類考』というもの。国立国会図書館(NDL)でPDF版でダウンロードができる有り難い資料だ。
この類考の原著は1790(寛政2)年頃、大田南畝による。大田南畝は幕府の官僚として公職に付きながら随筆・狂歌など文筆にすぐれ、大田蜀山人という号でもよく知られている。

この1790年頃の『浮世絵類考』、このままの資料だとしたら1800年代後期の芳瀧の動向などわかりようがない。ところがこの類校は年代を追うごとにその時々の浮世絵師や狂言作家、考証家などが情報を加筆・補足するかたちで継承されていた。そのおかげで芳瀧の情報の確認も可能なのだ。

以下が芳瀧の欄の内容。旧字体は新字体に変えて書き写した。

芳瀧 中川氏、俗称恒次郎といふ。大坂の人。父を源兵衛と云。画を中島芳梅に学びたり。現住京都市下京区高宮町。」

至極簡単。住所が町名まで記載されている。プライバシーに関して鷹揚な良い時代だった。

この情報が、芳瀧の人生のどの時点のものかという詳細はわからない。上方で一生を終えたと想像できなくもない。

とりあえず、この情報はこれで、芳瀧の居場所を確定するひとつとして念頭に置くことにしよう。

やっぱり、江戸の番付の確認はダメ元でもしておいたほうがスッキリしそうだ。

妹背山…手強し

《妹背山婦女庭訓》の番付調査の中間(?)報告。

前回話したとおり、芳瀧の《妹背山婦女庭訓》に登場する役者が揃った興行を見つけるべく、1870(明治3)年から(念のため)芳瀧没年の1899(明治32)年までの江戸を除く役者番付をチェックしてみた。
今回も資料は立命館大学の「ARC番付ポータルデータベース」。

29年間に26の《妹背山婦女庭訓》の興行が確認された。辻番付11件と役者番付15件を資料としたところ、役者番付に7件の浄瑠璃興行が含まれていた。このため、それらを削除。19件が歌舞伎興行とわかった。
ちなみに興行地の内訳は大坂が一番多く8回、京都4回、名古屋3回、横浜2回、神戸と静岡が1回 ずつ。

これらの番付の配役と、芳瀧作品の配役を一興行ごとに確認。

その結果として、芳瀧作品の配役による興行はない!

この結果から考えられること。

1)芳瀧作品の配役による興行の役者番付は存在するがデータベースとして世に出ていない。
2)芳瀧作品の配役による興行の役者番付は消滅してしまった。
3)役者番付を作らずに行われた特殊な興行(?)に発想を得て芳瀧が錦絵を作った。
4)この配役の興行自体が存在せず、芳瀧が「スーパースター夢の共演」といった架空の配役による作品を作った。
5)芳瀧が一時的に江戸で仕事をした。

①DBとして公開されるのを気長に待つ。
②他の方法で興行記録が見られるかもしれない。
③②の方法のほか、『藤岡屋日記』『斎藤月岑日記』は時期的に無理でもこれに類似した上方版の忘備録的な日記に記載がある可能性は??
④この可能性は大いにありそう。
⑤現状ではその形跡を示すものは見当たらない。しかも芳瀧の配役には大坂地盤の匂いが強い。

万事休す。