《妹背山婦女庭訓》の役者

今日は芳滝の《妹背山婦女庭訓》に登場する役者についての補足。

当時の役者は江戸と上方を行き来していた形跡がある。多くの役者に言えることではないようだが、移動が可能であったことも心に留めておいたほうがよさそうだ。それと、現代同様に歌舞伎役者には名跡の襲名がある。移動は今ほど頻繁なものではなかったとしても、活動地を移して襲名する例も見られて、ひとりの役者の役者名の変遷もなかなか複雑な場合もある**ようだ。しかし錦絵の画面上では「何代目」という表記はほとんどない。芝居番付にもない。役者動向を調べる作業が進んでいくと、「何代目」というところが本来そこに存在した役者かどうかを確認する手がかりになる。

そこでこれまでにわかっている7人分の役者名を一人ずつ検索して基本情報を集めた。そこから1870(明治3)年から1885(明治18)年頃を目処に、その役者がどこで活動していたかの手がかりを探した。

・橘姫:三代目中村福助(高砂屋・二代目中村梅玉)
 注**;二代目中村福助没後、三代目以降は大坂の高砂屋と江戸の成駒屋とそれぞれに中村福助が存在する
・藤原淡海 中村宗十郎(初代, 江戸・上方)
・荒巻弥藤次 大谷龍左衛門(襲名年 1872(明治5)年 1月 ~)*
・金輪五郎 二代目尾上多見蔵(江戸と上方)
・玄上太郎 實川延若(歌舞伎では初代、大坂・道頓堀で頭角を現す??)
・宮越玄蕃 實川菊蔵*
・藤原鎌足 五代目市川鰕十郎(大坂・角座で活躍)

*印の大谷龍左衛門、實川菊蔵は、唯一日本芸術文化振興会の文化デジタルライブラリーにて名前(大谷は襲名年も)は確認できるが、それ以上の情報は現段階、オンライン上では見当たらない。

ということで、ここまででわかったことを、動向に絞って書き出してみた。

この内容と芳滝の活動地が上方であったことを踏まえても、この《妹背山婦女庭訓》は上方で興行されたと考えていいと思う。

参考サイト
五代目市川蝦十郎:
https://kotobank.jp/word/市川鰕十郎%285代%29-1054250
二代目尾上多見蔵
https://kotobank.jp/word/尾上多見蔵%282代%29-1063730
實川延若
https://kotobank.jp/word/実川延若%28初代%29-1080189
中村宗十郎:
https://kotobank.jp/word/中村宗十郎-107879
三代目中村福助:奈河彰輔「上方歌舞伎・思い出の俳優」歌舞伎美人
https://www.kabuki-bito.jp/special/old/actorofmemory/post-actorofmemory-post-113/



《妹背山婦女庭訓》ふたたび

上方絵には改印がない?!というところで謎解きの作業が中断していた。

この作品の出版時期の初期捜索を改印に頼ることができなくなったわけだ。しかし当作品は芝居絵・役者絵のカテゴリー。芝居番付がある。

注目時期は、芳滝が笹木姓を名乗る少し前の1870年以降。

まず芝居番付を有効に利用するための準備。今回も立命館大学のデータベースをメインに作業を進める。

こうしたDBサイトを利用する際は、検索頁でまずは手持ちのデータを入力しなければならない。このデータが多いほど絞り込まれた的確な情報が入手できる。しかし今回の目的は「時期の特定」で、何年分ものデータが必要なため、入力データは外題の『妹背山婦女庭訓』と芸能分類の「歌舞伎」だけで検索。たった2つの情報なので1007件の番付資料のリストがヒットした。このリストは必要のない古いものも含まれているが、1869年以前はまずは無視して1870年から芳滝が活動していた上方(京都・大坂)の興行をチェックしていく。もう一つの方法として、外題と芸能分類の他に年代を入れていくこともあり。ただ「何年から何年」というザックリした入力ができないので、一年ごとに年代を入力し直して検索するという手間がかかる。

ところで、各興行の番付表を開いた時、今回重要になるのが役者名だ。ここで役に立つのが以前ポストイット式の役と役者名の書き込みを確認したあの作業。

・橘姫 中村福助
・藤原淡海 中村宗十郎
・荒巻弥藤次 大谷龍左衛門
・金輪五郎 尾上多見蔵
・玄上太郎 實川延若
・宮越玄蕃 實川菊蔵
・藤原鎌足 市川鰕十郎
*入鹿大臣はまだ役者名が不明です。

この配役が揃った興行の番付を捜索開始。

《頓兵衛娘於ふね》まとめ

《頓兵衛娘於ふね》のまとめ。

BlueIndexStudio所蔵

画題:頓兵衛娘於ふね(とんべいむすめ おふね)
版元:元飯田町中坂 人形屋多吉
落款:一勇齋国芳
押印:芳桐印
絵師:歌川国芳
出版時期:1848年
判型:大判・錦絵
外題:神霊矢口渡
上演場所:江戸 中村座
上演時期:1848(嘉永元)年5月
役者:二代 尾上菊次郎

実はこの作品は早稲田大学にも所蔵されている。世界のどこかに同じ摺りのものがあるのかもしれないが、本日2021年2月23日現在、オンライン検索では早大コレクションだけ。

なにか一つでも手がかりがあれば、オンライン検索で同じ版を探し当てることも可能だ。同じ摺りの所有が教育機関や美術系の団体であれば、ここに書いたような基本情報は簡単に得られる。それはそれで便利なのだが私は素人なので、今回のような作業をわざわざやってみるのだ。そういえば学生時代も恩師に「すでにある根拠の確かな情報は使っていかないと時間がいくらあっても足りないよ」と笑われていたのだった…

ということで、ひとまずここまで。

おふね

今日は「おふねは誰か」の謎。

まず、おなじみの神霊矢口渡の絵本番付で見ていく。

『神霊矢口渡』絵本番付(部分):arcBK03-0094-166 
立命館大学アート・リサーチセンター 所蔵

上の男性二人と振り袖の女性。中央の人物の足下に文字が見える。女性の下に右から横書きで「おふ袮菊次郎」。振り袖の袖にも重ね扇に菊の字が見える。となりの勇ましい(りっぱなお腹の)男の足元には縦書きで「頓兵衛歌右衛門」、腿のあたりには成駒屋の定紋祇園守がみえる。

このふたりこそ、頓兵衛とおふね父娘。
おふねを演じたのは尾上菊次郎、頓兵衛は中村歌右衛門。
尾上菊次郎は4代続いたようだが、この菊次郎は1814(文化11)年生まれの2代目。歌右衛門は1836(天保7)年に襲名した4代目のようだ。

錦絵の場合も見る人がわかりやすいように役者の着物に定紋や替紋が描かれていることは多いが、国芳の《頓兵衛娘於ふね》のおふねの着物には役者の手がかりが見えないところを見ると、配役が決まらないうちに作業に取り掛かったのかもしれない。


千秋万歳

芝居番付でも登場した千秋万歳」について。

《神霊矢口渡》の絵本番付でも「千穐万歳 大入叶」とあった。
江戸時代でいえば芝居や相撲など、観客を入れて娯楽として興行する催事の場や広告などで見られる常套句だ。

「千」も「万」もとても大きな数字を意味する漢字。「歳」は人の年齢や年月を表す意味で日常的につかう。「秋」は?疑問だった。すぐに角川漢和中辞典で引いた記憶がある。

「秋」は四季の三番目の季節という意味のほかに、年月や歳月といった「歳」と同じ意味があるのです。秋は収穫の時期。農作業に携わる人たちにとっては一年のサイクルが収穫のときに切り替わるのかもしれない、と想像して秋の意味が強く印象に残ったものだ。

ということで、千秋万歳は、千年万年と同じく永遠の意味や長寿を言祝ぐ意味で使われる。

ところで絵本番付では「秋」が「穐」になっていた。歌舞伎や相撲など験を担ぐ業界では「秋」の旁の「火」が火事を連想するとして、「秋」の古字、旁が亀の「穐」を使うようになったのだそうだ。火事と喧嘩は江戸の華というほどに火事が多かった江戸時代。「亀は万年」といわれる縁起がいい動物。変えたくなる気持ちもわかる。

「千穐万歳 大入叶」歌舞伎の場合は「観客が押し寄せて千秋楽まで大入りがつづきますように」といったところだろう。

そういえば、相撲番付の最後にも「千穐万歳大々叶」とある。

《頓兵衛娘於ふね》出版年の典拠

今日は芝居番付をもとに《頓兵衛娘於ふね》出版年の裏付けをしていく。

今回は辻番付、役割番付、絵本番付と三点セットが入手できた。
まず辻番付。これは前も話したとおり興行前の宣伝として使われるもの。

『神霊矢口渡』辻番付: arcBK01-0093_08 
立命館大学アート・リサーチセンター 所蔵

かなり見にくいがポイントだけ追っていく。
右側のいちばんの太字が外題『神霊矢口渡』。その下の細字で横並びに書かれているのは役柄と役者名。その欄を左に目で追っていくと最後に少し大きな文字で「中村座」とある。そのあとはイラストになるが、その枠の左上に「来る五月三日より」と告知がある。
年代が見当たらないのが少し気になるので、念の為、同時上演の外題『仇縁浮名琫*(あだなえん うきなのこいぐち)』は、他の心霊矢口渡興行との混同を避けるために記憶しておく。
まずは、5月3日から中村座で『神霊矢口渡』が上演されるということがわかった。

次は役割番付。こちらも興行前の告知だ。

『神霊矢口渡』役割番付: arcBK02-0113-001 
立命館大学アート・リサーチセンター 所蔵

こちらは表紙。役者の名前が定紋と一緒に記載されています。中央の堂々とした太字は座元「中村勘三郎」。この役割番付は表紙を入れて6頁の冊子。中には『神霊矢口渡』『仇縁浮名*』のほかに『月梅摂景清(つきのうめめぐみのかげきよ)』、『手向杜若四季咲(たむけぐさゆかりのしきざき)』も上演予定とされていた。
イラストはなく、演目の謳い文句が書かれている以外は配役と役者、演奏者など関係者の名前で紙面がギュウギュウ詰めだ。

『神霊矢口渡』役割番付: arcBK02-0113-001 
立命館大学アート・リサーチセンター 所蔵

役割番付の最後のページ。左下の枠の始めに「嘉永元戌申年五月九日より」とあり、年表示もある。辻番付の告知より開演が6日ほど遅れたようだ。

最後は絵本番付です。こちらは興行が始まってから手にすることが出来るものだ。

『神霊矢口渡』絵本番付:arcBK03-0094-166 
立命館大学アート・リサーチセンター 所蔵

目に着くのは大きく両側に書かれた「飛ゐき連中」。連中(れんじゅう)とは歌舞伎用語で俳優を後援する観劇団体のこと。今で言うならファンクラブと言ったところだろう。この表紙のレイアウトは定番となっているようだ。中央には中村勘三郎の紋、そして外題『神霊矢口渡』『仇縁浮名琫』「中村座」と書かれている。
こちらは最終頁。

『神霊矢口渡』絵本番付:arcBK03-0094-166
立命館大学アート・リサーチセンター 所蔵

上にはお決まりの「千穐万歳 大入叶」。下に「狂言作者」(歌舞伎の脚本家のこと)とありますが、この部分は今回確認した6つの絵本番付すべて空欄になっている。そして上部最後に「嘉永元申年 五月九日より」とあった。

3種類の芝居番付の内容から、1848(嘉永元)年5月9日から江戸中村座で『神霊矢口渡』が上演されたことがわかった。

これらの典拠によって、国芳の《頓兵衛娘於ふね》はこの興行に合わせて1848年に出版されたことが明らかになった。

*立命館大学ARCや早稲田の演博データベースなどでは「仇縁浮名☆(あだなえん うきなのこいぐち)」と、最後の字が☆印で書かれています。問題の文字は「琫」です。漢字源や漢和中辞典でも見つからないので、一般の言語ソフトにデータが入力されていないためにコンピュータ入力ができない状態なのだと思います。

参考サイト
「仇縁浮名琫」 コトバンク・日外アソシエーツ「歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典」歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典
https://kotobank.jp/word/仇縁浮名琫-2108871

お菓子をつくる幸せ

同じキッチンに立つのならお菓子作りがいい。プロが作ったお菓子ももちろん好きだが、自分でお菓子を作ることには、それとはちがう楽しみがある。

何をやっても上手く行かない時や精神的に疲れている時こそ、やる気がでる。一番は夜中のお菓子作り。

仕事魔だった頃は特に仕事の後しか時間がない。まずはシャワーを浴びてスッキリしたところで作業開始だ。お菓子作りは途中で味見ができない。計量が命という緊張感が雑念を払ってくれるとおもっている。
オーブンに入れたら片付けをして、お茶を入れる。そしてオーブンの前に椅子を移動して座りこみ、ゆっくりお茶を飲みながら焼きがるまでを見続ける…この時間、紛れもない至福。

さすがに今は夜中の作業はしないが、オーブン前の座り込み凝視はかわらない。

昔見たメリル・ストリープがアメリカ人料理家ジュリア・チャイルドを演じた映画『ジュリー&ジュリア』で、ジュリアに心酔するジュリーがチョコレートケーキを作るシーンがあった。

「本当にな〜んにもうまく行かない日、家に帰ってチョコレートソースを作る…なんて心地いいの?!」とジュリーの台詞。

同感だ。お菓子作りはリラクゼーション。筋肉の緊張がほぐれる。

ということで、久しぶりにチーズケーキを焼いてみた。どれをとっても高カロリーの材料で、コレステロールに敏感なお年頃としてはめったに作らないが、せっかくなので美味しく頂こう。

《頓兵衛娘於ふね》出版年

今日は《頓兵衛娘於ふね》の出版年の検索について。

まず、今回の検索のポイント。
歌舞伎の外題:神霊矢口渡
仮説とする時期:1847(弘化4)年〜1852(嘉永5)年

この検索は立命館大学のARC番付ポータルデータベースを利用した。
題名を「神霊矢口渡」地域を「江戸」と記入し、上演年を1847年から1852年までを一年ごとに検索した結果、15の番付が全てが1848(嘉永元)年5月のものだった。

15の番付というのは、同じ版木で刷ったものが複数の所有者によって保管されているということだ。

辻番付;1848(嘉永元)年5月3日 4件(うち一件は部分的に書き出したもの)
役割番付;1848(嘉永元)年5月9日 5件(うち椿亭文庫の一枚ものは部分のみ(2頁))*サイト内は「絵本」と誤表記?)
絵本番付;1848(嘉永元)年5月9日 6件
計、15件の芝居番付となる。

ARC番付ポータルデータベースは、演博検索(早稲田大学文化資源データベース)など立命館大学以外の大学や団体ともリンクしている。そのため複数の刷りがある場合、刷りが不鮮明なときや、欠損・欠頁があるときなどにすぐに別のものが閲覧できるので使い勝手がよく、最近はまずこのサイトから調査を始める。上記演劇博物館を有する我が母校も浮世絵の収蔵は負けてないと思うのだが、残念ながらデータベース検索の使い勝手がいまひとつ。進化してほしい。

ということで、この国芳作《頓兵衛娘於ふね》は、1848年嘉永元年の作品ということがわかった。

参考サイト
立命館大学データベース
日本芸能・演劇 総合上演年表データベース(2021年2月16日)
https://bit.ly/2NMroEs
ARC番付ポータルデータベース(2021年2月16日)
https://bit.ly/3s9wVUf


歌川国芳

今日は江戸幕末の浮世絵師・歌川国芳について。

国芳は、現在謎解き真っ最中の《頓兵衛娘於ふね》の絵師。
ここでは謎解きに役立ちそうな視点から、国芳の生涯を簡単にまとめてみる。

歌川国芳こと井草孫三郎は1797(寛政9)年11月15日、江戸日本橋本銀町の染物屋 柳屋吉右衛門の子として生まれる。ちなみに月日は不明ながら安藤広重の生年でもある。国芳と広重は同い年なのだ。6歳頃には武者絵の絵本を写したり、家業染物屋の上書きを手伝っていたようだ。

1808(享和2)年、国芳12歳。《鍾馗剣を提ぐる図》を描いて初代豊国に認められ、1811(文化8)年15歳で豊国に入門。1813(文化10)年には『戯作者浮世絵師見立番付』で前頭27枚目に付いたとのこと。一般に国芳の活動期は1812(文化9)年からと言われるが、入門してすぐに頭角を現したようだ。

1815(文化12)年、19歳の国芳最初の錦絵《春けしき王子詣》が刊行される。
1816(文化13)年には「採芳舎」、1818(文政元)年には「一勇齋」の号を使い始める。

そして1827(文政10)年、国芳31歳。《通俗水滸伝豪傑百八人之壹個》シリーズが開始されてから「武者絵の国芳」と評判がたつ。この作品を皮切りに山東京伝作『稗史水滸伝』の挿画や自身の《本朝水滸伝》シリーズの刊行が続いた。

そんななか、1836(天保7)年頃には「朝桜楼」号も使い始める。

国芳の武者絵は、意表を突く画面構成と現代マンガのMarvelも真っ青の豪快でダイナミックなアクションにモダンな彩色が効いている。粋でいなせな江戸っ子たちが虜になるのも無理はない。こうして、役者絵の国貞、風景画の広重とともに、子供の頃から慣れ親しんだ武者絵において国芳が揺るがない地位を確立したわけだ。

一方で美人画においては、トレンドをリードするようなファッション感覚で染物屋生まれのDNAを発揮する。ディテールまで凝った衣装デザインといいコーディネートのセンスといい、なかなかクールでスタイリッシュ。また、風景画については伝統的な技法による『東都名所』シリーズなどの刊行もあるが、西洋の版画を入手して遠近法を取り入れるなど新しい技法にも積極的に取り組んでいる点が興味深い。

さて1841(天保8)年、天保の改革が始まると錦絵出版業界も打撃を受ける。役者絵や芸者・遊女の錦絵の出版が禁止されたり、値段も価格統制された。

そんなさなか国芳は、1844(弘化元)年頃から「芳桐印」を使い始める。ちょうどこの年、国貞が三代豊国(自称二代)を襲名。国芳の初期作品には押印のないものが多いのですが、それでも少なくとも1830年代の作品に見られる印は「年玉印」だった。国貞は歌川派の「年玉印」をずっと使い続けている。国貞と国芳は同じ豊国門下で売れっ子同士。国貞は11歳年長だったがライバル関係であったことは容易に想像がつく。国芳が「年玉印」から「芳桐印」に変えた時期と国貞の豊国襲名とが重なる点に関連がないとは思えない。

出版統制下でも国芳は《誠忠義士伝》シリーズなどヒット作品を発表し続けていた。武者絵とともに国芳の独特な感性が発揮されているものに戯画がある。風刺の効いたデフォルメやカリカチュアを見ているとふっと笑みがこぼれる。こうした作品もまた、幕府の改革によって生きづらさを感じる庶民のささやかなはけ口となったに違いない。
そんな自由な発想を持つ国芳は、風刺や悪ふざけで何度も奉行所に呼び出されたほか、出版禁止なった作品もあったという。

創作活動がやりづらいこの時期にも創意工夫で老若男女を楽しませてきた国芳だったが、1855(安政2)年秋、中風で倒れる。この翌年、同い年の広重が他界します。国芳の症状はその後も悪化し1861(文久元)年3月5日、65歳の生涯を閉じる。

大雑把だが国芳の生涯を辿ってみた。
国芳作品は今後も謎解きに登場する。

参考文献
小林忠・大久保純一 2000「浮世絵の鑑賞基礎知識」至文堂 p.244
橋本麻里 2016「べらんめえ国芳」『芸術新潮』第67巻第4号 通巻796号 新潮社 p.22〜23

神霊矢口渡

おふねちゃんの登場。

前回まででわかったこと。

1)画題:頓兵衛娘於ふね(とんべえむすめおふね)
2)版元:元飯田町中坂 人形屋多吉(にんぎょうや たきち)
3)落款:一勇齋国芳
4)押印:芳桐印
5)改印:村田・米良

そしてここからが新情報だ。
芝居絵は歌舞伎興行に合わせて制作されることが多いため、この作品の制作・出版時期と上演時期は重なると考える。そこで、いろいろな角度から時期を追ってみた。

まず⑤の改印「村田・米良」。『錦絵の改印の考証』によれば、この2つの改印は1847(弘化4)年から1852(嘉永5)年に使用。この作品の出版時期はこの改印の使用時期に絞ることができる。

次に②の「版元・人形屋多吉」。人形屋多吉は国芳や弟子の作品を扱っていた。地本問屋営業時期を調べたところ、弘化〜嘉永とあるので、村田・米良による改印の時期と合致する。

③この作品の絵師一勇齋国芳は歌川国芳のこと。国貞と人気を二分した、あの国芳。1797(寛政9)年生まれ。国芳の作画時期だけ触れると、1812(文化9)年から万延と言われている。万延期はとても短くて1860年3月から翌年。西暦だと1812年から1861年を作画時期と考える。もちろん改印による仮説は問題ない。

④「芳桐印」は国芳作品で頻繁に見かける押印。初期は歌川一派の「年玉印」を使っていた。国芳が年玉印から芳桐印に変えた時期が、国貞が三代豊国を襲名した1844(弘化元)年ころという話もある。これについてはまだ納得がいく裏付がない(どこかで読んだ記憶だけ)。仮に1844(12月から弘化元)年を、国芳作品に芳桐印が押印され始めた時期と見ると、これもまた、ここまでの流れに符合するものではある。

そして①《頓兵衛娘於ふね》。この役が登場するのは『神霊矢口渡』(しんれいやぐちのわたし)という作品。もともと、浄瑠璃としてつくられて初演は1770(明和7)年江戸・外記座(げきざ)。1794(寛政6)年から歌舞伎の出し物となった。作者は福内鬼外(ふくうちきがい)。実はこの人、日本のダ・ヴィンチ、オールマイティの平賀源内。

さて、ここまでで確証を得たこと。
歌舞伎の外題:神霊矢口渡
仮説とする時期:1847(弘化4)年〜1852(嘉永5)年

この2つを手がかりに、つぎは芝居番付へ。

参考文献
石井研堂 1932『錦絵の改印の考証』菊寿堂伊勢辰商店
小林忠・大久保純一 2000『浮世絵の鑑賞基礎知識』至文堂

参考サイト
「神霊矢口渡」文化デジタルライブラリー(2021/02/14)
https://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/modules/kabuki_dic/entry.php?entryid=1169
「人形屋多吉」Wikipedia (2021/02/14, 参考文献が信頼できると判断したため参考にした)
https://ja.wikipedia.org/wiki/人形屋多吉