磬子 Zoom in

磬子の彫物を拡大して見てみた。

BlueIndexStudio所蔵

美しい彫りで驚いた。彫刻刀は迷いもなく動いて、一気に彫られたことがわかる。

「屋」の3画目や5画目などの入筆部、「重」の4画目の折れに黒色部分が見える。これは下書き文字の墨の掘り残しだろう。

きちんとした書で、字間や文字の大きさもバランスよく取れているところから、筆耕者、またはそれに準ずる技術を持つ人が下書きをしたうえを彫ったと考える。

アメリカのアンティークサイトなどで見られる同サイズ程度の磬子には、このような整った彫りはほとんど見かけない。彫り師が下書きなしのフリーハンドで直彫したような、文字として美しいとは言えない仕上がりが多い。

このようにきちんと、丁寧に手順を踏んでいるにもかかわらず誤りに気づかなかったのは不思議だ。

完成して過ちに気づいたものの時間の余裕がなく修正されずに寄進されたと考えるのは、寄進という目的から推測すると、可能性が低いだろう。
新たな磬子を作り直して寄進しこの磬子は工房に残っていて、後年、明治の廃仏毀釈などで外に出る機会を得たのかもしれない。それで破壊されずに今日至っているならば、かなり運のいい磬子だ。

申と甲

今回も磬子の彫物について。

BlueIndexStudio所蔵

この胴体部分の外側上部の彫り込み。
問題は「安永三年申午」

恥ずかしながら全く気がつかず、この謎解きをシェアしていた学生時代のゼミ仲間Iさんが指摘してくれた。

問題は「申」。

画像で安永三年(1774)の次に「申(さる)」がある。その次は「午(うま)」。これでは十二支が2つ並んでいることになる。通常は元号年の次に十干と十二支が並ぶ。

安永三年の干支は甲午。

甲を申と誤って彫ったのだ。縦画の彫り違いはありそうなこと。さらにIさんは、刻印された時期が年号と干支を組み合わせて使用することがなくなった時代の可能性も指摘してくれた。つまり年号と干支のセット使用が一般的ではなくなった時代ならば、こうした彫り間違いやうっかりミスもあるのではないかという見解。

たとえば番付資料などを見ていると、明治の初期は元号年と干支(十干十二支)の記載が多いが、その後徐々に元号年と十二支のみとなり、明治中期には元号年だけの表記も出始めている。ただ、他の資料を見ていても、ある時点で一斉に様式が変わったというものでもなさそうで、かなり長期にわたって混在していたように見えるのだ。

甲を申と掘り間違えたことがこの磬子の流転のきっかけだったのかもしれない。