芳瀧の動向

今日は芳瀧の弟子川崎巨泉の資料から芳瀧の動向を見てみよう。

突然登場の川崎巨泉。芳瀧を検索している中で発見した芳瀧の弟子で娘婿となった人だ。川崎巨泉は浮世絵師から郷土玩具画家となり、師匠で義理の父である芳瀧の略歴を残していたことが、川崎が活躍した大阪の府立図書館関係の資料からわかった。以下、その資料をもとにして略歴をまとめてみた。

<芳瀧の略歴>
1841(天保12)年 大坂南区鰻谷に誕生
1853(嘉永6)年 12歳で江戸の芳梅に入門
1855(安政元)年 独立
1874(明治7)〜1875(明治8)年 父の先祖の笹木姓を継ぐがのちに弟に譲る
1880(明治 13)年 京都に移住
1885(明治 18)年 堺に移住
1889(明治22)年 **有限会社大阪麦酒会社創立
1892(明治25)年 *巨泉、13歳で堺市甲斐町に住む芳瀧に入門
        **同年、アサヒビールの「朝日に波」のラベルを描く
1896(明治29)年 *巨泉、画の修行のため上京
1897(明治30)年 *巨泉帰阪。大坂南区鰻谷の芳瀧宅に住む。
1898(明治31)年 *巨泉、芳瀧の娘ハマ子と結婚。婿養子となり芳瀧の仕事を継ぐ。
1899(明治 32)年 春 病床につく。
         同年 6 月 28 日甲斐町て病没。享年 59 歳。

*印は巨泉の動向です。芳瀧の所在を理解するために関連事項を加えた。
**印はアサヒビール創立時の社長鳥居駒吉と取締役宅徳平との交友関係が芳瀧の作家活動に深く関わるものであったため、同地にての活動として加えた。

ところで、以前芳瀧の居場所さがしで閲覧した仲田勝之助編校『浮世絵類考』では京都の住所が記載されていた。今回の資料との照合から、『浮世絵類考』の芳瀧欄は1880〜1885年のデータをもとに執筆されたことが分かった。

芳瀧が江戸で芳梅に入門した後1853年から、1874〜75年の笹木姓の継承と譲渡を含む1880年京都への移住までの27年間、まさに笹木芳瀧画《妹背山》の制作の可能性が最も高い時期が判然としないのが、なんとも悩ましい結果だ。
ただ、全体としてはやはり本拠地上方での活躍の様子が伺えるものだった。


参考文献
長田富作 1943「川崎巨泉画伯略伝」『川崎巨泉画伯遺墨 人魚洞文庫絵本展覧会目録』大阪府立図書館
森田 俊雄 2009「おもちゃ絵画家・人魚洞文庫主人川崎巨泉(承前) ―浮世絵師からおもちゃ絵画家への軌跡― 」『大阪府図書館紀要』(38)大阪府

参考サイト
「おもちゃ絵画家川崎巨泉について:おおさかeコレクション」大阪府立図書館
(2021年3月11日閲覧)
https://www.library.pref.osaka.jp/site/oec/ningyodou-kyosen.html